ニムルドの象牙製品
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本項では、アッシリアの都市ニムルド(現在のイラク、ニーナワー県)において19世紀から20世紀に発見された、前9世紀から前7世紀の小さな彫刻および飾り板の象牙製品群(ニムルドの象牙製品)について解説する。ニムルドの象牙製品の大部分はメソポタミアの外に起源を持っており、レヴァントおよびエジプトで作られたものであると考えられている。また、製品にフェニキア語碑文が多数含まれていることから、しばしばフェニキア人と関連づけられる[2]。これらはフェニキアの金属製容器(同時に発見されたが、フェニキア人のものと特定されたのは最近である)と共にフェニキア美術研究の基礎資料である。しかしながら、フェニキア本土や主要なフェニキア人植民地(カルタゴ、マルタ、シチリアなど)でこうした容器や象牙の発見例(あるいは同様の特徴を持った品)が他にないことが重大な問題となっている[3]。
- ^ “Nimrud Ivories”. British Museum (2011年2月21日). 2011年3月15日閲覧。
- ^ Richard David Barnett.. “The Nimrud Ivories and the Art of the Phoenicians” Iraq, vol. 2, no. 2, British Institute for the Study of Iraq, 1935, pp. 179–210, https://doi.org/10.2307/4241579. “The Nationality of the NW. Palace Ivories: そのエジプト的な外観から、この一連の象牙製品がアッシリア製のものではないと結論付けられた。フランソワ・ルノルマン(Francois Lenormant)は"Bulletin archéologique de l'Athenaeum français, No. 6, June 1856"において、父親であるシャルル(Charles)が、初めてこれらが疑似エジプト製品であり実際にはフェニキア製であることを認識したのだと主張した。これに対し、大英博物館のビーチ博士(Dr. Birch、これらの象牙製品を最初に公表した人物)はこの象牙製品を、アッシリアでエジプト人の職人が作成したか、もしくはアッシリアでコピーされたものだとした。後の人々は少数の例外を除きルノルマンを支持しており、既に述べたように、レヤードの発見した製品群の中にフェニキア文字の文章があるものが7点あること、ロフタス(Loftus)のものの中にはフェニキア語と見られる碑文が2つあることに気付いていれば、これらの作品の出所についてのさらに酷い誤りも避け得たかもしれない(これらをアラム語とする根拠は僅かであると思われる)。現代の研究ではルノルマンの見解がもっともらしいという見解が強まっている。同じタイプの象牙製品が、アハブ王の都でティルスとの関係で悪名高いサマリアでも発見されている。また、北シリアのアルシラーン・タシュ(Arslan Tash)において発見された製品断片のフェニキア語またはアラム語の碑文によれば、この品はダマスカスのいくつかのフェニキア人部族によって作られ、彼らの主に贈られたものであると思われる。これらの点について、彼らの宗教的場面からも内部的な証拠を得ることができる。この論文の第二章ではこうした品がフェニキアのような国の芸術として予想されるものであることが示されている[訳語疑問点]。この内部的証拠から得られる結論は、「窓辺の女(Woman at the Window)」のパネルに描かれているロッジア窓[訳語疑問点]は、タルムードにおいて「頭を出すことができる窓」「テュロスの窓(Tyrian Window)」と呼ばれるもの、即ちπαρακπύτεινであることである。このことは強い論拠となる。対照的にエジプト型の窓では頭を出すことはできない[訳語疑問点]
- ^ Martin, S. Rebecca (2017). The Art of Contact: Comparative Approaches to Greek and Phoenician Art. University of Pennsylvania Press, Incorporated. pp. 28, 89. ISBN 978-0-8122-9394-4 . "従って、フェニキア美術の歴史における2つの最大の課題は、これら重要な初期の発見によって強調されている。フェニキアからは金属製容器は見つかっておらず、象牙製品もほとんどないし、我々がフェニキアのものとした品々は必ずしも様式的あるいは図像的特徴をフェニキアで発見された他の発掘品と共有しているわけでもない。それでも、金属製容器と象牙彫刻というこれら二つのジャンルは、フェニキア美術の始まりだとほぼ普遍的に考えられている-「真の」フェニキア起源の象牙製品と金属容器が発見されていないという問題を発掘調査不足のためとする誘惑に駆られるが、こういう考え方は恐らく幻想である。フェニキア本国では象牙製品・金属製品は極僅かしか見つかっていない。詳細な発掘調査が行われているサラプタ(Sarapta、レバノンのサラファンド)から見つかった象牙製品は10点未満であり、そのうち具象的(figurative)な表現がされているものは3点のみ、さらに「フェニキアの」金属容器片は1つもない。また、ハンス・ニーマイヤー(Hans Niemeyer)などは、カルタゴ、マルタ、シチリア、その他の主要な植民地のいずれでも容器も象牙製品も見つかっていないことを指摘している。「フェニキアの」金属容器の第一人者であるマーコー(Markoe)でさえ、アッシリアで発見された容器について「我々は単純に、これらの容器がどこで製造されたのかはわからない」と認めている。"
- ^ a b Metropolitan note
- ^ a b c d “Nimrud Ivories”. Art Fund. 2011年3月8日閲覧。
- ^ a b Frankfort 1970, p. 311
- ^ a b c d e “Christie ivories to go on show at British Museum”. BBC Online. (2011年3月8日) 2011年3月8日閲覧。
- ^ a b c d e f Kennedy, Maev (2011年3月7日). “British Museum buys Assyrian treasures cleaned by Agatha Christie”. The Guardian (London) 2011年3月8日閲覧。
- ^ Frankfort 1970, pp. 311–312
- ^ a b Frankfort 1970, pp. 313–314
- ^ Frankfort 1970, pp. 314–322
- ^ a b Fant & Reddish 2008, p. 113
- ^ Loftus, W.K. The Journal of Sacred Literature (ed. J. Kitto), July 1855, p. 492
- ^ “Agatha Christie and archaeology”. British Museum. 2011年3月8日閲覧。
- ^ a b Fant & Reddish 2008, p. 114
- ^ a b c Millard, A. R. “Alphabetic Inscriptions on Ivories from Nimrud” Iraq, vol. 24, no. 1, 1962, pp. 41–51
- ^ A. R. Millard, Alphabetic Inscriptions on Ivories from Nimrud. Iraq, Vol. 24, No. 1 (Spring, 1962), pp. 41-51 (13 pages). https://doi.org/10.2307/4199711
- ^ Horry, Ruth A (2015年). “Conserving Birmingham Museum's Nimrud ivories”. Oracc. University of Pennsylvania. 2020年12月19日閲覧。
- ^ “Nimrud Ivories”. University of Melbourne. 2011年3月20日閲覧。
- ^ FAMSF press release (see end)
- 1 ニムルドの象牙製品とは
- 2 ニムルドの象牙製品の概要
- 3 カナン語とアラム語の碑文
- 4 コレクション
- 5 参考文献
- ニムルドの象牙製品のページへのリンク