ジョージ4世と競馬とは? わかりやすく解説

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ジョージ4世と競馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/10 23:26 UTC 版)

本項ではジョージ4世と競馬について述べる。


注釈

  1. ^ 伝説的名馬エクリプスの生産者として知られるカンバーランド公ウィリアム・オーガスタス(1721-1765)とは別人。このカンバーランド公はジョージ2世の子で、ジョージ3世からみて叔父、ジョージ4世から見ると大叔父となる。こっちのカンバーランド公ははっきりと記録に残るものとしては最古のジョッキークラブのメンバーの一人であり、1762年に馬主の勝負服の登録が行われたときに名を連ねた19名のうち、唯一の王族である[2]。イギリス種牡馬チャンピオンマースクの馬主でもある[3]
  2. ^ ジョージの父、ジョージ3世は、若い頃にサラ・レノックス英語版という16歳の少女に恋をして、結婚を考えた。サラは第3代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの娘であり、レノックスの娘達はその美貌で有名だった。その美しさは、リッチモンド公爵の先祖、すなわちチャールズ2世の愛妾だったルイーズ・ケルアイユ譲りだったと伝えられている。ジョージ3世は重臣の反対でサラと結婚することは叶わなかった。そのサラを娶ったのがサー・チャールズ・バンベリーである[5]
  3. ^ この時売り払った馬の中に、後述するエスケープ号がいる[13]
  4. ^ レースの事前登録自体は1788年から始まっている。登録料は100ギニーで、実際のレースの1年前、1789年7月までに辞退したものは25ギニーを支払えばいいが、それ以降は実際にレースに出なくても100ギニーを納める義務がある。
  5. ^ 「どの馬にも勝つチャンスが均等にある」という発想は、従前の「馬主同士がどちらが強いか金を賭けて勝負する」「強いと予想された馬が当たり前のように勝つ」というスタイルからの、革新的な変化になった[16][14]
  6. ^ エスケープ号の父は当時のチャンピオン種牡馬ハイフライヤーである。エスケープが若駒のときに売りに出たとき、その購入者は馬をひどく手荒に扱い、若駒は脚を馬小屋の木戸に挟まれてしまった。しかし怪我することなくうまく脚をはずして小屋から逃れた。この逸話にちなんで「エスケープ号」と命名された[13]
  7. ^ 正確には、このときのエスケープの賭け率は「even」、すなわちリスクに対してリターンが等しい「1対1」(日本風の表現では2.0倍)だった。イギリスでは、馬券の売り上げに連動して倍率が決まるパリミュチュエル方式ではなく、ブックメーカーが自由に倍率を定めるブックメーカー方式である。1対1の倍率は、一般論として、儲けがリスクに見合わない、もはや賭けに値しない倍率とみなされる。
  8. ^ 試走ではエスケープ号が勝ち、2番はクビ差でバロネット号、ペガサス号は大きく遅れ、スモーカー号はさらに100ヤード以上離されたという。ただしチフニー騎手の話ではエスケープ号は余裕を残しており、本気を出せばバロネット号に3馬身以上差をつけることができた、という。チフニー騎手はこの試走のあとすぐに賭け場へ行き、オートランズステークスでのエスケープ号の勝利に50ポンドを賭けた。また、この時のペガサス号の騎手の体重が重く、本来の所定の斤量よりも重かったという伝聞もある[14]
  9. ^ ダービーは3歳の若駒によって争われる。当時は、まだ幼い3歳馬には本格的な長距離戦は無理だと考えられていた。そのためこの馬のハンデはわずか5ストーン3ポンド(33.1kg)だった(なお、ハンデはレースの6ヶ月前、すなわち正月に発表されているので、その後のダービーの結果はハンデに織り込まれていない。)[14]
  10. ^ バリモア伯爵は自分の馬を出走させており、もしもそれが勝つと2万ポンドが10倍になって戻ってくることになる[14]
  11. ^ バロネット号の倍率は20対1(21.0倍)で、いわゆる穴馬だった[14]
  12. ^ バリモア伯爵が2万ポンド賭けていた馬は3着だった[20][19]
  13. ^ ザルトリウスの作品では、勝負服は同じ色だが、帽子の色が異なっている。それ以外は、ザルトリウスの作品は2着以下の各馬も勝負服の色は登録どおりに描かれている。
  14. ^ イギリス式(フラクショナル方式)の賭け率表示の「2対1」は、賭け金1に対して儲けが2見込めることを示している。日本で広く採用されている方式(デシマル式)に換算すると、100円の馬券に対して払戻金が300円(うち100円は元本)ということになり、3.0倍と表示される。
  15. ^ このような「いんちき行為」は、当時としてはありふれたものだった。チフニー騎手の証言によれば、ジョージのお抱え厩務員は何年にもわたり、レース前日の厩舎に潜入して競走馬にアヘンを与えるような連中と行動をともにしていたという。彼らはそうやって馬券で利益を上げていた[25]
  16. ^ バンベリー準男爵はサフォーク州知事(High Sheriff of Suffolk)やアイルランド担当大臣英語版を歴任した人物。ダービーの共同創設者の一人であり、第1回ダービーの優勝馬主でもある[26]。バンベリー准男爵以外の2人はいずれも庶民だった[13]
  17. ^ チフニー騎手は騎手として競馬に出ることはできなくなったが、ジョージは彼に200ポンドの年金を約束した[9]。チフニーはのちにこの年金をもらえる権利を質に入れて1200ポンドあまりを得たが、すぐに使い切って借金が返せなくなり、滞納を理由に投獄されて野垂れ死んだ[27][5]
  18. ^ ジョッキークラブが何ら法的拘束力や根拠を持たないまま世界の競馬に影響力を及ぼす状態はおよそ2世紀にわたって続いた。20世紀になって、ついにエリザベス2世がジョッキークラブを法人として認める勅許を出し、初めてジョッキークラブの後ろ盾ができた。しかし21世紀になると、競馬の公平性をより高いレベルで実現するには馬主の同好会であるジョッキークラブでは不充分であること、変化の激しい現代に素早く対応するには伝統的な組織では難しいことなどを理由として独立性の高い機関の設立が求められるようになった。いくつかの過渡的な組織を経て、2007年には英国競馬統括機構(BHA)が成立し、ジョッキークラブがかつて有していた様々な役割が移管されている[29][30]
  19. ^ ジョッキークラブの決定は「ニューマーケットルール」「ニューマーケット規則」などといい、日本を含め多くの国々で、「競馬はニューマーケット規則にのっとって行う」と定めるようになった。
  20. ^ ジョージが本当にチフニー騎手によるいんちき行為を知っていて、儲けに利用したのかどうかは、不確かとされている[5][31]
  21. ^ その後も引き続きジョッキークラブの会員だった。
  22. ^ 「ラドクリフ氏」とは、Emilius Henry Delmé Radcliffe(1774 - 1832)を指し、当時のヘレフォードシャーの州長官(en:High Sheriff of Hertfordshire)を務めた人物。のちにジョージがジョージ4世として即位すると、王室厩舎の御馬係(en:Gentleman of the Horse)に取り立てられた。ジョージ4世は王室の競走馬を主にラドクリフ氏名義で出走させた。
  23. ^ 例を挙げると、オーヴィル(Orville)は1806年に春と秋のニューマーケット競馬場ではラドクリフ氏名義で、ブライトン競馬場とルイス競馬場では王太子名義で出走している。(オーヴィルは3歳(1802年)にセントレジャーを勝った頃は第4代フィッツウィリアム伯爵の持ち馬だったが、のちにジョージが買い取り、1805年からは王室名義で出走している。)
  24. ^ 1805年という説[31]と、チフニー騎手が死んだ1807年だったという説[11][5]がある。
  25. ^ ジョージは1785年に21歳の若さにして、年上の未亡人マリア・フィッツハーバート英語版と結婚式を挙げている。ところが彼女は平民で、そのうえイギリス国教ではなくカトリック信者だった。このため二人の結婚は無効だとされた。そして父ジョージ3世は、ジョージが競馬で作った借金返済のための補助金を引き受ける代わりに、ドイツからキャロライン・オブ・ブランズウィックを王妃として迎えて結婚するよう強制した。ジョージはやむなくこれに従い1795年に結婚したが、翌年長女が生まれた後は別居した。
  26. ^ エスケープ号事件当時のジョッキークラブ会長バンベリー準男爵は、既に1821年に没している。
  27. ^ 19世紀の半ばには、近接するブライトン競馬場、ルイス競馬場、グッドウッド競馬場の3競馬場で「夏のサセックスフォートナイト(2週間)シリーズ」と銘打って開催していた。20世紀の半ばには経済上の理由でルイス競馬場は閉鎖、ブライトン競馬場も下火になり、いまはグッドウッド競馬場の「グロリアス・グッドウッド開催」がイギリスの夏競馬の中心地の一つになっている。
  28. ^ ジョージが初めてブライトンを訪れたのは1783年だという。離宮の建設は1787年に始まり、1801年に食堂を増築、さらに1815年から全面改装を行った。議会の見積もりでは改装費は6万ポンドを要するとされた。厨房の改装だけで6000ポンドがかかり、お雇いのコックの年俸だけで2000ポンドになった。当時はナポレオン戦争のためイギリスは膨大な対外債務を抱え、国内は不況で失業者が溢れている時代だった。[35]
  29. ^ イギリスでは、競馬は平地競走(フラットレース)と障害競走(ジャンプレース)に大別され、障害競走にはハント(ナショナルハント競走。狩猟の馬(猟騎馬、ハンター)で行う。専門の騎手ではなく、基本的には一般人が騎手として出走する。)、チェイス(スティープルチェイス。比較的障害が大きい。)、ハードル(比較的障害が小さい)という種類がある。日本では一般に全てまとめて障害競走と呼ばれる。このほかには馬車を引く繋駕競走などがある。
  30. ^ アイルランドでは、イングランドよりも競馬の組織化・体系化は遅れて始まり、1790年にアイルランドで最高位の貴族である第2代リンスター公爵ウィリアム・フィッツジェラルドを長としてターフクラブ(競馬会)が組織化された。これはイングランド・ニューマーケットのジョッキークラブを模倣したものだった。アイルランドでは平地競走よりも障害競走の人気が高く、イングランドを上回る規模で行われていた。平地競走については、ジョージ4世がアイルランドを訪れた頃は黎明期といえる時期だった[40]
  31. ^ アスコット競馬場そのものの歴史は、アン女王による1711年の創設に遡る。しかし数年後にアン女王が崩御するとアスコット競馬王は打ち棄てられてしまい、顧みられなくなっていた。18世紀の半ばになって、カンバーランド公がこれに目をつけて自身の競馬の基地として使うようになった。本格的な王立競馬場として再興されたのはジョージ3世の時代になってからで、実際にそれを主導したのは王太子ジョージだった。
  32. ^ 競馬のレースの原初的な基本形態は、2人の馬主が賭け金を出し合って自分の持ち馬の勝負を行い、勝ったほうが賭け金を総取りするというマッチレースだった。やがて3人以上による「勝者総取り戦(ステークス競走)」が行われるようになった。ほかに、王室が提供する賞品を争うレースもあり、これはプレート競走などと呼ばれた。カップレースは、競馬の主催者(地元の有志)が費用を負担して高額な賞品(金杯)を提供して行われるもので、たいていの競馬場で「ゴールドカップ」の名前で行われる。よく知られたものとしてはドンカスター金杯(1766年創設)がある。カップレースがあることは、その競馬場が経済的に余裕があることの現れであり、ゴールドカップはその競馬場を代表する目玉競走の一つになった。また、「カップコース」といって2マイルや4マイルの距離が設定されていた。たとえば1806年のレーシングカレンダーでは57箇所の競馬場のレースが記録されており、そのうち19競馬場で「ゴールドカップ」が行われている。賞品の金杯はたいてい100ギニーのねうちとされており、距離は4マイルが多く、それも4割ほどの競馬場では一本勝負ではなくヒート方式で争われていた。ブライトン競馬場のゴールドカップレースは、ジョージ自ら賞品を提供していた。
  33. ^ 当時すでにダービーやセントレジャーといった、3歳馬のクラシック競走が始まっていた。しかし当時の価値観では、3歳馬というのはまだ若くて未熟で非力な馬であり、ダービーを行う1マイル半(2400メートル)は競走馬の真価を問うには短すぎる距離だった。(だからこそ、どれが勝つかわからない、ギャンブルとしての醍醐味があった。)これに対し、じゅうぶんに成長した競走馬の実力を計るには2マイルや4マイル以上の長距離が必要だと考えられており、アスコット金杯は真の実力をもってイギリスナンバーワンを決める競走とみなされるようになっていった。
  34. ^ アスコット金杯観戦に訪れた他国の元首として最も有名なのは、19世紀半ばのロシア皇帝ニコライ1世である。皇帝はアスコット金杯のために特注の優勝杯を下賜するようになり、一時アスコット金杯は「大ロシア皇帝陛下プレート(The Emperor's of Russia Plate)」というレース名で呼ばれていた。当時の金杯は、今では美術品として1億円以上の価値がある。日本の明仁上皇は、皇太子時代に夫婦で訪英した際、エリザベス2世の招待で2日間アスコット競馬場に滞在し、アスコット金杯も含めて競馬を観戦している。
  35. ^ アメリカの馬産家で競馬史研究家のPatricia Erigeroは、『マイ・フェア・レディ』で描かれるロイヤルアスコット開催の場面を引き合いに出し、これがジョージ4世が始めたものだとしている[44]。『英国競馬事典』ではこの日アスコット競馬場でみられる「まことに突飛な帽子や襟ぐりの深いドレスから覗く胸の深い谷間(それとおそらくは傘)は、きわめて英国的な光景[45]」としている。(なお、肩の露出やミニスカートはドレスコードに抵触する。女性のパンツスーツも1970年代に解禁されるまで禁じられており、ジーンズは今も禁止である[45]。)
  36. ^ ザカーネル号は、ダービーで1位同着になっている。しかしその後行われた優勝決定戦で敗れた。
  37. ^ 原文は「too lame」。直訳すると「跛行している」「コズミがひどい」というような意味。
  38. ^ リバイアサン号は1年間放牧に出されたが、復帰後も優れず引退した。そのあと売りに出されてアメリカへ輸出された。アメリカでさらに数年間競走馬としてレースに出た後に種牡馬になり、5回(1837-1839, 1843, 1848年)アメリカの種牡馬チャンピオンになった。

出典

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  2. ^ a b 『競馬の世界史』p89-91「9 ジョージ王朝時代のイギリス ジョッキー・クラブの設立」
  3. ^ 『英国競馬事典』p56-59「王室」
  4. ^ a b c 『Ascot The History』p35-71「PRINNY」、p35
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『Running Racing;The Jockey club years since 1750』p17-26「The Bunburyists」
  6. ^ 『競馬の世界史』p98「9 ジョージ王朝時代のイギリス 18世紀後期の競馬界の名士たち」
  7. ^ a b c d e f g 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p232「George IV,King」
  8. ^ a b c 『競馬の世界史』p70-75「8 ジョージ王朝時代のイギリス 競馬の発達;新しい種類のレース」
  9. ^ a b c d e f 『競馬の世界史』p93-94「9 ジョージ王朝時代のイギリス エスケープ事件」
  10. ^ 『Racing Calendar In the year 1786』,p283
  11. ^ a b c d e f g 『The Heath & The Horse;a history of racing and art on newmarket heath』p70-73
  12. ^ 『Racing Calendar In the year 1786』,p29-30
  13. ^ a b c d e f g 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p202「Escape」
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『Ascot The History』p35-71「PRINNY」、p36-41
  15. ^ 『ダービー その世界最高の競馬を語る』付録1「ダービー暦年成績」
  16. ^ a b c 『サラブレッド』p40-41
  17. ^ a b 『Racing Calendar In the year 1790』,p49
  18. ^ 『ジョージ四世の夢のあと』p14-17「悪友」フォックスとの結びつき
  19. ^ a b 『Racing Calendar In the year 1791』,p46-47
  20. ^ Throughbred Bloodlines,Baronet,2017年8月24日閲覧。
  21. ^ 『Ascot The History』p41「PRINNY」“Your baronets are more productive than mine. I made fourteen last week, but I got nothing by them.”
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  24. ^ a b c d 『The Heath & The Horse;a history of racing and art on newmarket heath』p86
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  26. ^ a b 『英国競馬事典』p128-130「競馬専制者」
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  28. ^ 『The Heath & The Horse;a history of racing and art on newmarket heath』p89
  29. ^ 『英国競馬事典』p206-208「ジョッキークラブ」
  30. ^ 『英国競馬事典』p46-48「英国競馬統括機関(BHB)」
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『競馬の世界史』p115-「12 19世紀のイギリス 摂政時代:ジョージ4世、ウィリアム4世」
  32. ^ a b c d e f g h i j 『Ascot The History』p35-71「PRINNY」、p41-67
  33. ^ 英国放送協会(BBC NEWS),2011年6月14日付,Ascot Racecourse: A royal history,2017年8月29日閲覧。
  34. ^ a b 世界大百科事典第2版』,平凡社,日立ソリューションズ・クリエイト,コトバンク版,2017年8月29日閲覧。
  35. ^ 『ジョージ四世の夢のあと』p37-45「国王陛下の阿呆宮?ロイヤル・パヴィリオンに賭けた夢」
  36. ^ a b ブライトン競馬場公式サイト,HISTORY,2017年8月26日閲覧。
  37. ^ 『Galignani's Messenger: The Spirit of the English Journals.』,Brière,1819,GoogleBooks版,2017年8月26日閲覧。
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  39. ^ 『Racing Calendar In the year 1806』,p81-84
  40. ^ 『アイルランド競馬史』p19-26「ターフクラブの設立と障害競馬の発達」
  41. ^ a b c d 『アイルランド競馬史』p27-41「国王の威光、バードキャッチャー、ハーカウェイ」
  42. ^ 『競馬の世界史』p169-170「16 アイルランド 19世紀」
  43. ^ a b 『競馬の世界史』p140-142「14 19世紀のイギリス 競馬場、騎手、調教師等」
  44. ^ a b c d e f Throughbred Heritage,Leviathan,2017年8月24日閲覧。
  45. ^ a b c 『英国競馬事典』p11-14「アスコット」
  46. ^ 『競馬の世界史』p210-211「19 アメリカ 独立戦争から南北戦争まで テネシー州」
  47. ^ a b Throughbred Bloodlines,Zinganee,2017年8月24日閲覧。
  48. ^ 『The Sporting magazine』vol.24(1829年5月-10月),,1829,p422-423,Hahi Trust Digital Library,2017年9月4日閲覧。


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