クン・テムル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 02:45 UTC 版)
クン・テムル(モンゴル語: Гүнтөмөр/Kün temür、ᠭᠦᠩ ᠲᠡᠮᠦᠷ)は、モンゴル帝国の第21代(北元としては第7代)皇帝(ハーン)。モンゴルの年代記『黄金史綱』ではトゴーン(Toγoγan)、『恒河の流れ』ではコケ・テムル(Köke temür)とも表記される。
- ^ 生年は『蒙古源流』による。
- ^ 『『恒河の流れ』はエンケ・エルベク(エンケ・ハーンとエルベク・ハーンの事績が混同されて一人の人物とされた)の子とする。
- ^ a b Buyandelger2000,p132-136
- ^ 『黄金史網』に拠る。『蒙古源流』は誤って即位年を翌年のこととする(岡田2010、228-234頁)。
- ^ 『明太宗実録』建文二年二月癸丑「上遣書諭韃靼可汗坤帖木児並諭瓦剌王猛哥帖木児等、暁以禍福」
- ^ クン・テムルが亡くなりオルク・テムル・ハーンが即位するに至った経緯については諸説あり、岡田英弘はクン・テムル単独で、あるいはオルク・テムルの傀儡としてオルジェイ・テムルと敵対していたと推測する(岡田2010、271頁)。一方、Buyandelgerはこの頃オイラト内部で親クビライ家派のチョロース部と親アリクブケ家派のケレヌート部の対立があったと想定し、チョロース部のバトラ丞相が敵対派閥たるクン・テムル・ハーンとオゲチ・ハシハを殺害したのだと推測している(Buyandelger2000,p132-136)
- ^ 訳文は羽田1973,10-11頁より引用
- ^ エセン・ハーンとダヤン・ハーンはそれぞれ明朝に対して「大元天聖大可汗」、「大元大可汗」と自称したと伝えられている。
- ^ 森川2008、66-67頁
- 1 クン・テムルとは
- 2 クン・テムルの概要
- 3 参考文献
- クン・テムルのページへのリンク