カーチス号とは? わかりやすく解説

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カーチス号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 14:43 UTC 版)

カーチス号(カーチスごう、Curtiss Special)は、アート商会(後のアート金属工業)が日本自動車競走大会に参戦するために開発したレーシングカーである。1924年(大正13年)にアート商会の社主である榊原郁三と榊原真一の兄弟によって製作され、助手の一人として後の本田技研工業(ホンダ)創業者である本田宗一郎が製作に携わったことで特に知られる。


注釈

  1. ^ 昭和に入ってからの開催となる1930年代のレースでも、カーチス号が1925年(大正14年)に記録した速度を明確に上回っている車両は確認できない。
  2. ^ 市販車は内部のポンプが自動で燃料をキャブレーターまで吸い上げていたが、レーシングカーの振動の大きさに耐えられる機械ではなかったため、ポンプの駆動(燃料タンク内の圧力の調整)は人間が圧力計を見ながら行う必要があった[4][8]
  3. ^ 第8回大会では大会の中心人物である藤本軍次が運転した。名手として知られた藤本は(必ずしも最高の性能というわけでもない)ダイムラー号を駆って決勝レースで首位を独走してみせたが、ゴールまで残り半周のところでトラブルによりリタイアし、結果、カーチス号に優勝をさらわれた[39]
  4. ^ カーチスのエンジンの値段は500円だったと言われている[40][4][41](3,000円という説もある[42])。郁三が貸していた金の代わりに、ダイムラーの飛行機用エンジン5台と、カーチスの飛行機用エンジンを譲り受けたとも言われている[18]
  5. ^ 日光街道でも試走を行い、同道には草加までの間に5 ㎞ほどの直線区間があるため、早朝に最高速で走るテストが行われた[43]
  6. ^ カーチス号のフレームはミッチェル英語版だと言われており、この点は本田の記憶違いと思われる(詳細は「#車体」を参照)。
  7. ^ 同商会の北澤有次という人物もよく助手をしたという[18]
  8. ^ このレースはアート商会の北澤有次が助手を務める予定だったが、本田が「乗せろ」と言ってレース当日に上京してきたため交代となった[8]
  9. ^ ブガッティは1930年代当時の正真正銘のグランプリカーだが、高回転型でトルクが細いエンジンや細いタイヤは、日本における開催コースの路面には不利だったため、低速において大きなトルクを発生するフォード・V8エンジン搭載車にも苦戦した[18][53]
  10. ^ この時に優勝したインヴィクタ英語版も現存している。
  11. ^ 1937年5月の第3回大会にも榊原真一は参戦しているが、当時の新聞記事(『自動車情報』1937年5月14日)に掲載されたプロフィール記事で、榊原真一について「今回は一転、国産オオタ号で」と記載されている[57]
  12. ^ 真一の自宅[8]
  13. ^ これは戦時中に馬車か荷車に使うために取り外し、米か何かと交換したためだろうと小林彰太郎は推測している(本田もその推測に「そうかも知れない」と賛意を示している)[4]
  14. ^ 徳太郎の死後、遺族はしばらくカーチス号を保有していた。徳太郎の息子は自動車評論家の小林彰太郎と旧知の仲で、小林が「お前持ってたってしょうがないだろう。それよりも、本田さんが昔この車に乗られたし、つくるときに手伝われたのだから、本田さんに差上げたらどうだい」と提案したことがきっかけで、本田に譲られたという[4]
  15. ^ ホンダ学園によるレストアの後、同車には群馬県の近藤賢一のレストア工房で手が加えられ、さらに精密な修整や調整が施された[56]
  16. ^ 同施設が鈴鹿サーキットに在った当時も同施設で保存されていた[43]
  17. ^ この車両も濱徳太郎が戦後に三井家から譲り受け、その後、ホンダに寄贈された[56]
  18. ^ 画像の個体はスミソニアン博物館国立航空宇宙博物館)所蔵の物で比較的初期のモデルにあたる。アート商会が入手した個体はOX-5エンジンとしては後期型で、エンジン番号M147だとされる[28]
  19. ^ 1920年代のこの時期から、ヨーロッパでも速度記録車では航空機用エンジンの使用が盛んになる(詳細は「自動車の速度記録」を参照)。
  20. ^ 実際にレストア車を走らせた小林彰太郎は「1200か1300rpmしか回転が上がらない」と述べているため[43]、この3,000 rpmという伝聞が正確なものかは定かではない。
  21. ^ 試走時は本郷から神田明神の坂を下るとたいていエンジンがかかったという[4]
  22. ^ 航空機用エンジンはエンジン回転数が低く(カーチスエンジンの諸元では最高1,350/1,500 rpm。常用は1,200rpm程度[43])、自動車用のギア比のギアボックスをそのまま使用することはできないため、ギアは適当なギア比を持ったものを作成する必要があり、ファイナルギアも含めた一式を自製した[43][71]
  23. ^ 本田はこのサブラジエーターの装着は自分のアイデアだったと述べている[4]
  24. ^ そのため、戦後に濱徳太郎が引き取り牽引しようとした際、大柄な人物ではコクピットに乗り込めなかったという[60]
  25. ^ その後、第9回大会まで暗い色で塗装され、車番が白色だったことは各大会の白黒写真で確認することができるが、塗色についての言及は確認できず、いずれの会も第5回と同様に「茶色」だったのかは定かでない。
  26. ^ 「灰色」[8]と「銀色」[10]の両方で伝えられている。戦後にレストアを行った濱は多摩川スピードウェイで走るカーチス号も見ており、「シルバー」のボディ塗装を直したとしている[10]
  27. ^ 1920年代の榊原の会員番号が「20」だったと明らかにしている資料がないため、推定になる。
  28. ^ 日本自動車競走大会として開催された大会には、第5回大会(1924年)から第9回大会(1934年)までの全てに参戦していることを確認できる。各大会中の個々のレースについては詳細な記録に乏しく、上位入賞したレースや、レースレポートが残っているレース以外は参戦したかどうかが不明。
  29. ^ このレースは本田宗一郎がドライバーを務めたという説もある[8]。当時の新聞記事では、『報知新聞』は1位のドライバーは本田、榊原はアート・ダイムラーで2位として記載している[80]。他紙では榊原の名がアート・カーチスのドライバーとして記されているケースもあり[13]、どちらが正しいかは定かではない。
  30. ^ 参加していたことは記録があるものの[84]、詳細な結果は不明。2日目のレースのひとつで1着を得たものの、この大会では低迷したと伝えられている[84]
  31. ^ 運営側の不手際で周回数が適切に勘定されておらず優勝を失ったと榊原真一は証言している[43]。1着でゴールしたが連戦連勝を妬まれて降格処分が下ったとも言われている[4]
  32. ^ 本田は後に酒は飲むようになるが、他の工員とは異なり、煙草は吸わず賭け事もしなかった。
  33. ^ RA271は参戦した3戦でそれぞれ外観が異なり[86]ホンダコレクションホールで保存されている車両はホンダのデビュー戦のドイツGP仕様を再現したものになっている。
  34. ^ 日本自動車競走大会のカーナンバーは基本的に日本自動車競走倶楽部(NARC)の会員番号と同じで、1934年の第9回大会が終わった時点で榊原郁三の会員番号は「2」に変わり、本田の番号は「20」となっている[8]
  35. ^ RA271がカーナンバー20を付けたのはデビュー戦のドイツGPのみ。1950年から1973年途中までのF1ではカーナンバーは年間で固定ではなく、レースごとに各レースの主催者が割り当てを行っていた。
  36. ^ 小林彰太郎は、これはカーチス号の現役当時の路面が(試走を行った東京市外の公道も含めて)非舗装だったのに対して、このテストコースは舗装路なのでその違いによるものだろうと推測している[43]

出典

  1. ^ a b c d 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「伊藤飛行機研究所」 pp.200–201
  2. ^ a b c d e f 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.79
  3. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.85
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa カーグラフィック 1979年3月号、「本田宗一郎・昔噺」(聞き手・小林彰太郎) pp.104–108
  5. ^ ピストンと共に(アート金属1978)、p.65
  6. ^ ピストンと共に(アート金属1978)、「年表」 pp.223–235
  7. ^ カーグラフィック 1979年3月号、「戦前の多摩川スピードウェー・レース」 p.154
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 戦前自動車競走史-5 多摩川スピードウェイ開幕、『Old-timer』No.73(2003年12月号)
  9. ^ a b c d e f g h i 日本の自動車レース史(杉浦2017)、「アート商会とカーチス号」 p.32
  10. ^ a b c d e f g h 日本の自動車レース史(杉浦2017)、「ホンダカーチス号と日本クラシックカークラブ初代会長、浜徳太郎との由来」(浜素紀) pp.120–121
  11. ^ a b c 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.205
  12. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.19
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  14. ^ a b “Curtiss wins Japan Racing Championship” (英語). The Japan Times & Mail: p. 10. (1924年11月24日) 
  15. ^ 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.86
  16. ^ 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.76
  17. ^ a b c d e 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.74
  18. ^ a b c d e f g h 本田宗一郎本伝(毛利2006)、「『本田さんはきっと手強い商売敵になる』と父は恐れていました」(榊原重門) pp.59–61
  19. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「アート商会の登場」 pp.166–168
  20. ^ a b 夢を力に(本田2001)、第一部・私の履歴書(1962年)「[エピソード1]」 pp.32–34
  21. ^ 夢を力に(本田2001)、第一部・私の履歴書(1962年)「2 自動車修理工場に見習奉公」 pp.23–27
  22. ^ a b c d 戦前自動車競走史-4 日本自動車競走倶楽部の活動と藤本軍次、『Old-timer』No.72(2003年10月号)
  23. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、「多摩川スピードウェイと太田祐雄」(太田邦博) pp.111–112
  24. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「男爵の飛行機」 pp.209–210
  25. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「ベースは“カデラック”」 p.210
  26. ^ a b ピストンと共に(アート金属1978)、p.59
  27. ^ a b c d e f 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「カーチス号に続く道」 p.168
  28. ^ a b c d e 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.69
  29. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「飛行機の勝ちとなりました」 pp.109–110
  30. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「立川のアート・ダイムラー」 p.200
  31. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.68
  32. ^ 夢を力に(本田2001)、第一部・私の履歴書(1962年)「4 若者と二人で「浜松支店」」 pp.35–45
  33. ^ a b c d e f g h 日本の自動車レース史(杉浦2017)、「レースの楽しさ厳しさ──本田宗一郎談」 p.106
  34. ^ 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.71
  35. ^ ピストンと共に(アート金属1978)、p.61
  36. ^ 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.73
  37. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「直線は速かった」 pp.169–170
  38. ^ 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.77
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  40. ^ a b c ピストンと共に(アート金属1978)、p.64
  41. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.78
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  43. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Super CG No.11(1991年)、「本田宗一郎氏とカーチス・レーサー」(小林彰太郎) pp.49–55
  44. ^ a b グランプリレース 栄光を求めて(秋鹿1989)、「レースの楽しさ厳しさ」(本田宗一郎談・1962年) pp.27–33中のp.28
  45. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.80
  46. ^ a b c d e f g 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「ガードナー対アート・カーチス」 pp.221–222
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  48. ^ 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.83
  49. ^ a b c 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.23
  50. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.89
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  52. ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.27
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  65. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「少年宗一郎の奮戦」 pp.189–190
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  71. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「クロス配置のバルブ」 pp.204–206
  72. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.114
  73. ^ 昭和の日本 自動車見聞録(小林2013)、p.123
  74. ^ a b 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「ミッチェルの鋼製フレーム」 p.214
  75. ^ a b 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.48
  76. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「NARC」 pp.94–p.95
  77. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、p.202
  78. ^ a b c 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.81
  79. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.82
  80. ^ 『報知新聞』大正14年(1925年)5月4日・朝刊 7面
  81. ^ “Yoyogi races are highly successful” (英語). The Japan Times & Mail: p. 14. (1925年5月10日) 
  82. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「第6回 代々木練兵場」 pp.264–265
  83. ^ 戦前日本の自動車レース史(三重2022)、「倶楽部に返す」 pp.265–267
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  85. ^ a b “Kawasaki Wins 120K. Auto Race” (英語). The Japan Times & Mail: p. 5. (1936年6月9日) 
  86. ^ HONDA F1 1964-1968(中村1984)、「ホンダF1の技術」(神田重巳) - 「RA271/RA272」 pp.173–233中のp.206
  87. ^ a b 定本 本田宗一郎伝(中部2017)、p.118
  1. ^ a b カーチス号”. ホンダコレクションホール. 2022年11月12日閲覧。
  2. ^ 多摩川スピードウェイ――自動車競走の時代 (1936年)”. Gazoo (2017年1月13日). 2022年11月12日閲覧。
  3. ^ まず、本田宗一郎。初めから『つくる喜び』の人。いつも『やらまいか!』の人 / 1936 (2/4)”. 語り継ぎたいこと. 本田技研工業. 2022年11月12日閲覧。
  4. ^ Curtiss OX-5, V-8 Engine” (英語). National Air and Space Museum / Smithsonian. 2022年11月12日閲覧。


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