ウルドゥー語文学
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ウルドゥー語文学(ウルドゥーごぶんがく、ウルドゥー語: ادبیات اردو)は、インド亜大陸北部発祥のウルドゥー語による作品の総称を指す。ウルドゥー語はヒンドゥスターニー語を起源としており、ヒンディー語文学とは類縁関係にある。デリーで民衆の日常語として形成されたのち、デカン地方でガザル(恋愛抒情詩)などの詩作が栄え、のちにデリーでも広まった。19世紀からのイギリスによる植民地統治や独立運動をへて、ヒンディー語文学との分化が進んだ。分離独立後は、主にパキスタンとインドの作家によって創作されている。
注釈
- ^ デーヴァナーガリー文字は元来サンスクリット語の表記に使われていた[1]。
- ^ インド憲法第8附則における公的な諸目的の用語には、22言語が定められている[3]。
- ^ ダカニー・ウルドゥー語とは「南のウルドゥー語」や「デカン地方のウルドゥー語」という意味になる。デカン地方にはウルドゥー語話者が多く、2014年時点のハイデラバードのウルドゥー語人口は約122万人でデリーの約51万人を上回る[5]。
- ^ 『全ての味わい』の原題 sab ras の ras(味わい)はサンスクリット古典美学の概念であるラサ(味わい、美的陶酔、ジュース)を指し、搾ればあらゆる味わいが染み出す書物という意味になっている[9]。
- ^ フォート・ウィリアム・カレッジのインド人語学職員は、イスラーム教徒の場合はムンシー(Munsī)、ヒンドゥー教徒の場合はパンディット(Pandit)と呼ばれた[16]。
- ^ アリーガル運動を主導した思想家のサイイド・アフマド・ハーンは、英語文献をウルドゥー語に翻訳する協会を1864年に設立し、1875年にはムハマダン・アングロ・オリエンタル・カレッジを設立して科学教育を推進した。この大学は通称アリーガル大学と呼ばれ、運動の名称にもなった[19]。
- ^ 題名のウムラーオ・ジャーン・アダーは娼婦の名前であり、著者ルスワーのインタビューに答えて回想するという構成になっている[20]。
- ^ たとえば同時期のマドラス管区のバラモンの男性の識字率は70%だった[23]。
- ^ モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーはヒンドゥスターニー語への回帰を主張したが、ガーンディーの暗殺によって対立は英語派とヒンディー語派に収斂していった[28]。
- ^ たとえばパンジャービー語を母語とする作家でも、ウルドゥー語で創作を続けた者が多かった。当時はパンジャービー語の散文が確立されておらず、すでにウルドゥーの詩的伝統に適合していた点などが原因だった[31]。
- ^ パンジャービー語、スィンディー語、ウルドゥー語などの話者が対立し、仕事の奪い合いや宗教をめぐる対立も起きた[36]。
- ^ 『目の前は海』では、インドやパキスタンの他に、レコンキスタによってアンダルスから移住を強いられたイスラーム教徒についても語られている[38]。
- ^ カッワーリーはスーフィズムに関連が深く、神秘詩や恋愛詩が重要とされる。他の言語では、カッワーリーの創始者アミール・フスラウの古ヒンディー語や、パンジャービー語も使われる[40]。
- ^ アーザードはウルドゥー文学の研究者でもあり、ウルドゥー語詩史の研究書『生命の水』(1880)を著した[44]。ハーリーは、アフマド・ハーンが始めたアリーガル運動の協力者・指導者の1人でもあった[45]。
- ^ 分離独立を焦点とした動乱文学ののちには、東パキスタンがバングラデシュとして独立した出来事についての作品も書かれた[51]。
- ^ 動乱文学のまとまった選集として、Alok Bhalla編『Stories about the Partition of India 3Vols』(1994年)がある[54]。
- ^ 題名のインダルとはサンスクリット語のインドラにあたり、インドラのウルドゥー語読みを指している[58]。
- ^ ナワルキショール・プレスの出版物の言語内訳は、ウルドゥー語1441、ナーガリー文字1007、ペルシア語588、アラビア語302、英語48、グルムキー文字8、マラーティー語9、サンスクリット語1などになっている[65]。
出典
- ^ 長崎編 2019, p. 94.
- ^ a b c 粟屋, 太田, 水野編 2021, p. 71.
- ^ a b 内藤, 中村編 2006, p. 207.
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- ^ a b 北田 2014, p. 154.
- ^ 北田 2014, pp. 154–155.
- ^ a b 北田 2014, pp. 157–158.
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- ^ a b c 粟屋, 太田, 水野編 2021, pp. 86–87.
- ^ アースィフ, 山根 2016b, pp. 165–166.
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- ^ 長崎編 2019, pp. 94, 247–250.
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- ^ 長崎編 2019, p. 248.
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- ^ 粟屋, 太田, 水野編 2021, pp. 76–77.
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- ^ 粟屋, 太田, 水野編 2021, pp. 74–75.
- ^ 後藤 2014, pp. 133–134.
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- ^ 鈴木 1977, p. 183.
- ^ 鈴木 1977, pp. 179–180.
- ^ 鈴木 1977, p. 187.
- ^ 粟屋, 太田, 水野編 2021, p. 81.
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