インド・パキスタン分離独立
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インド・パキスタン分離独立(インド・パキスタンぶんりどくりつ、英語: Partition of India、ヒンディー語: भारत का विभाजन Bhārat kā Vibhājan または हिंदुस्तान का बटवारा Hindustān kā Batwārā、ヒンドゥスターニー語: ہندوستان کی تقسیم Hindustān ki Taqseem、ウルドゥー語: تقسيم ہند Taqseem-e-Hind)は、1947年8月14日および15日にイギリス領インド帝国が解体し、インド連邦とパキスタンの二国に分かれて独立したことを指す。日本語では印パ分離(いんぱぶんり)、印パ分断(いんぱぶんだん)などとも略称される。
注釈
- ^ イギリスは親英的な藩王国およびパキスタンを通じて国民会議派が率いるヒンドゥー教徒の勢力を牽制し、インドに影響力を残そうとした。これに対してイギリスの影響力を排した中央集権的な独立国家を求める国民会議派が反発したのである。「イギリス領インド帝国#ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947」も参照。
- ^ イスラム教徒の側からはガンディーの説く「融和」はヒンドゥー教徒優位のものと捉えられたことも事実であり、それが分離独立を後押ししたことも否めない。また、ガンディーのヒンドゥー教徒優位の(善意からではあったが)姿勢に対しては同様の批判がカースト差別に苦しんでいた不可触民(ダリット)からもあり、ビームラーオ・アンベードカル(インド憲法の起草者)が主導する新仏教運動へとつながっていく。
出典
- ^ a b c d e 「インド・パキスタン独立76年 対立超え帰郷支援/ビザ申請■親族に連絡」『読売新聞』朝刊2023年8月10日(国際面)2023年8月21日閲覧
- ^ 「ジンナー(略)・1940年「二民族論」を展開、ムスリム国家建国を目標にかかげた」 - NHK高校講座 世界史 第35回 南アジアの独立 ~インド、パキスタン、バングラデシュ~(2008年~2011年版)
- ^ もっとも、ジンナーもこの時点では分離独立ではなく、分権的なインドにおけるイスラム教徒自治州の創設を希望していたとの説が有力である。「ムハンマド・アリー・ジンナー#偶像、批判、研究」も参照。
- ^ 「国境線を引く責任者には、インドには縁もゆかりもないロンドンの弁護士が当たりました。彼は、もっぱら統計資料だけをたよりに赤い線を引きました。こうして、そこに住む人々の文化や生活とは無関係に、新しい国境線が作られたのです。」 - NHK高校講座 世界史 第35回 南アジアの独立 ~インド、パキスタン、バングラデシュ~(2008年~2011年版)
- ^ [1]
- 1 インド・パキスタン分離独立とは
- 2 インド・パキスタン分離独立の概要
- 3 経緯
- 4 結果
- 5 参考文献・資料
- 6 関連項目
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