ゆくひと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 07:59 UTC 版)
15、6歳の佐紀雄は、「やったあ」と歓声をあげて、浅間山の噴火を見るために月夜のヴェランダに飛び出した。佐紀雄は小さい頃から、軽井沢の別荘に滞在中、浅間が噴火する度にヴェランダに飛び出すので、両親に笑われていた。爆発の直後は、煙とは思えない恐ろしい力が凝結した固形体と見える。いわば大地の砲口から出たばかりのこのように大きい力を形にして見ることの出来るのは、他にありそうもないと佐紀雄は思っていた。煙が伸び上がったり、横にたなびいて拡がってしまってからは噴火を見た気がしないのである。 そんな佐紀雄のところへ弘子が寄り添い、肩に触れて、「なかへ入りましょう」と話しかけて来た。弘子の体臭や、娘らしい甘さが佐紀雄の胸にしみ、不意に悲しくなった。火山砂が雹のように降って来ても、中へ入ろうとしない佐紀雄の顔に突然流れている涙を弘子は見た。それは思いがけないもので、少年の純粋なものが伝わって来るだけだった。 帰ってゆく弘子を、佐紀雄は蝙蝠傘二本持って追って行き、傘はいらないと言う弘子と一つの傘になり町まで送っていった。弘子は話しているうちに、また佐紀雄の肩を抱いていた。佐紀雄は、どうしてよく知らない人のところへお嫁に行ってしまうのか、弘子さんを好きな人は沢山いるのに、と早口で弘子に聞いた。弘子は、「そういうものよ」と答えたが、佐紀雄は怒るように肩をすぼめて弘子の手をはずした。結婚するという人が、なにげなく自分の肩を抱いてくれることは、佐紀雄は許せないように思えた。
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