ワット・オントゥ・マハーヴィハーンとは? わかりやすく解説

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ワット・オントゥ・マハーヴィハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/21 05:22 UTC 版)

ワット・オントゥの本堂

ワット・オントゥ・マハヴィハーン(ラーオ語:ວັດອົງຕື້ ມະຫາວິຫາຣ )は、500年の歴史を持つビエンチャンの中心部にある古い上座部仏教寺院である。一般的にはワット・オントゥ(ラーオ語:ວັດອົງຕື້ )と呼ばれる。意味はオントゥ仏のある大聖堂の寺[1]

歴史的に神聖な場として人々が耐えず参拝に訪れる。かつては広い敷地を持ち、現在のワット・インペーン、ワット・ミーサイ、ワット・ハイソークと接していた。現在は道路で物理的に分離された4つの独立した寺院となっている[2]

ワット・オントゥ・マハヴィハーンは古くからパーリ語などを学ぶ指導僧の養成施設としても機能していたが、現在はオントゥ僧伽師範大学(ラーオ語:ວິທະຍາໄລຄູສົງ ອົງຕື້)が置かれている[3]

伝説によると紀元前300年頃にワット・シープーム(ラーオ語:ວັດສີພູມ)という名前の仏教寺院が存在していたという。1566年にセータティラート王がオントゥ仏像(ラーオ語:ພຣະເຈົ້າອົງຕື້)を鋳造し安置したことから、以後ワット・オントゥ・マハヴィハーンと名前が変更された[2]

ワット・オントゥの屋根飾り
ワット・オントゥの特徴的な山門

かつては高官が王へ忠誠を誓う大誓約の儀式が行われる場所であった。伝統的にはタート・ルアン祭りの後、儀式はワット・オントゥ・マハヴィハーンに移して1日1晩の宗教的儀式が行われた[2]

住職

現在の住職はDr.プアングパスート・プーマヴォング(ラーオ語:ພຣະອາຈານໃຫຍ່ ປະຣິນຍາເອກ ພວງປະເສີດ ພູມາວົງ)である[4]

本堂と本尊

本堂はルアンパバーン様式で幅16m、長さ40m、高さ25mである。本尊はセータティラート王の命で1566年に鋳造された青銅製のオントゥ仏(ラーオ語:ພຣະເຈົ້າອົງຕື້)で、幅3.4m、高さ5.8mである。同様に安置されているパスック、パサイ、パスームの3仏像も同時に鋳造された[2]

本堂の本尊(オントゥ仏像)

オントゥ仏への礼拝文

オントゥ仏への礼拝文は以下の通り[5]

Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa (3x)

Buddhapadimā sabbato vattaṃ vattati lokato  

Guṇasampanno Gotamo  

Buddhajeṭṭhaṃ devamanussarāṃ kaṅkhitaṃ  

Jayamaṅgala guṇaṃ ṭhapitaṃ balaṃ  

Ahaṃ sīlamayaṃ namāmi durato  

Ahaṃ vandāmi sabbadā

オントゥ仏像鋳造譚

ヤンゴンの王立図書館に所蔵されていた「カンプン(石灰)」と題する文書によれば──西暦1555年、セーターティラート王は、未来世において正等正覚を証得せんことを発願し、ビエンチャンにおいて未曾有の大功徳を積むべく、当時最大の仏像を鋳造することを発願された。王は王位にありながら、白衣の姿となり、八斎戒を厳修し、仏像が完成するまでワット・インペーンにて精進潔斎された。まさに鋳造の行に入らんとしたその時、ビルマの王がビエンチャン近郊に兵を進め、使節四名を遣わし、「降伏するか、あるいは戦端を開くか」との最後通牒を突きつけた。その使節らは、煮えたぎる青銅に手を入れても一切の火傷を負わぬという「神通」のごとき奇跡を現してみせた。

これを見た王は一時、心が乱れ、宮殿へと退いた。 王妃は驚き、その事由を問い、王を慰めて曰く、「もし大王の発願が真実であるならば、いかに煮えたぎる金属といえども、何ら害を及ぼすことはありますまい。仏陀を目指す功徳行の証明とおなりなさいませ」と。王はその言葉に勇気を得て、再び鋳造の場に赴き、仏前に礼拝し、発願を唱えた後、使節に向かって言上した。

「われ、降伏の意向ありといえども、ただいまは仏陀の道を願い、功徳を積む善業を為している最中なり。作業を終えた後にビルマ王と対面する所存なり」と。そののち、王は左手に剣を携え、右手を素手のままにて沸騰する青銅を汲み取り、型へと流し入れ、ついに「オントゥ仏像」を鋳造し終えた。続いて、余剰の金属を用いて「パスーク仏像」、「パサイ仏像」、「パスーム仏像」を鋳造された。これを見届けた使節らは、王の書簡を携え、ビルマ軍本営へと帰還した。

その夜、セーターティラート王は、ただ一人の近侍を伴い、密かに敵陣に赴いた。出立に際し王は心中に念じた──「もし我が願行が真実ならば、敵兵たちは眠りに落ちているであろう」と。果たして陣営の兵はみな熟睡しており、王は剣を抜いてビルマ王を誅すべきかと一瞬思案したが、「殺生戒」を思い起こし、殺害を思い止まり、かわりにビルマ王と使節たちの喉元に石灰で十字の印を記し、静かに退去した。翌朝、王と使節たちはその印を見つけ、これが可能なのはセーターティラート王以外にいないと悟り、「この王こそは未来仏であろう」と結論付けた。ビルマ王は語った──「もし彼がただの人王であれば、昨夜のうちに我が命を奪っていたであろう。だがそうしなかった。彼と戦えば、我らは敗れるであろう」と。かくして王は使節らに命じ、セーターティラート王との関係を敵対から友好へと改めるよう申し渡した。ちょうどその頃、セーターティラート王の使者がビルマ陣営を訪れ、こう伝えた。

「昨夜、ビルマ王の御寝所を訪れましたが、眠っておられたため起こすのは不敬かと思い、そのまま退きました。いま朝日も昇りましたゆえ、陛下を宮殿へお迎えし、両国の諸問題を協議したいと存じます」。

ビルマ王は大いに喜び、貢ぎ物を携えて王宮を訪問した。両王は友誼、誠実、相互扶助について語り合い、将来問題が起こった際には互いに扶け合うと誓いを交わした。最後にビルマ王は、ラオス王妃の知恵と慈愛を称え、尊像を造立することを提案した。ラオスの石材にて、ビルマの工匠たちが王妃像を彫刻し、一方でセーターティラート王もミャンマー王妃の像を建立させた。こうして両王妃の尊像は、ワット・インペーンに仏法と友情の象徴として安置されたのである[2]

大誓約の儀式

革命前の王国時代には、毎年タート・ルアン祭の時期に「大誓約の儀式」が行われていた。朝8時頃、政府関係者や高官、軍人たちが本堂に集まり、国王陛下もそこに加わる。僧侶たちは祈りを唱え、誓約の水が入った壺を祝福する。その壺のそばには、剣や銃を持つ役人が立つ。蝋燭が灯され、次の誓約の文が読み上げられた[6]

謹んで申し上げます。我々、高位たる官僚、執務を司る官吏、郡長、村長は、ここに我らが尊き君主に対し、絶対なる忠誠を誓約いたします。

我らはその職務を誠実かつ忠実に遂行し、君主より委ねられし全ての任務を正確無比に果たし、寸毫の懈怠もございません。また、不忠なる輩や外敵とのいかなる陰謀にも加担せず、政府に対し反逆的な思想を抱くことなく、反乱者を密かに匿うような行為は断じて行いません。この誓約に背きし者あらば、厳正なる処罰を甘受すべきものと心得ます。

しかしながら、もしこの誓約を守り、誠実かつ献身的に職務に励むならば、必ずや幸福が訪れ、災厄は避けられることと信じております。願わくは、我らが富を得て、妨げられることなく善行を施せるよう、君主の御恩情を賜らんことを。

蝋燭はその後、水に浸され、聖水として清められ、剣と銃も同様に清められる。その水はグラスに分けられ、参列者全員に配られ、合図とともに、王国の高官たちは一斉にその水を飲む。儀式は、僧侶による最後の祈りで締めくくられる[6]

オントゥ僧伽師範大学

オントゥサンガ師範大学の校舎

オントゥ僧伽師範大学(ラーオ語:ວິທະຍາໄສສົງ ວັດອົງຕື້ມະຫາວິຫານ 英語:Ongtue Sangha Teacher Training College)は、古くから指導僧の養成施設としても機能していたが、1995年7月24日付僧侶教育に関する首相令139号(ラーオ語:ດຳລັດວ່າດ້ວຍການສຶກສາສົງ ສະບັບເລກທີ 139/ ນຍ, ລົງວັນທີ 24/7/1995)に基づき1996年に僧侶の高等教育機関として僧伽大学(ラーオ語:ວິທະຍາໄລສົງ)に指定された。設立当時は3年制で教育学や文学などを学ぶ施設であった[7]

現在は教育スポーツ省教員養成局の傘下に置かれ4年制の学士号を得られる仏教学・ラオス語・文学師範コース(ラーオ語:ຄູພຸດທະສາດສະໜາ ແລະ ພາສາລາວ-ວັນນະຄະດີ)と英語師範コース(ラーオ語:ຄູພາສາອັງກິດ)が置かれる[8]仏教学・ラオス語・文学師範コースでは、教育学、教育心理学、児童発達心理学、教育メディア論、言語学、文学、古ラーオ語、古典などを学ぶことができる[9]。学長は住職でもあるプアンパスート・プーマヴォング師、その他にも学僧や還俗者が教員を務める[3]

ワット・オントゥ・マハヴィハーン博物館

寺院内にワット・オントゥ・マハヴィハーン博物館(ラーオ語:ຫໍພິພິທະພັນວັດອົງຕື້ມະຫາວິຫານ)がある。2025年2月8日に開館した[10]

仏教博物館

侵略の歴史

過去何度も侵略を受け破壊されている。主なものは以下の通り[2]

  • 1574年:スリンタルーサイ王の治世中のビルマ軍による侵略時。
  • 1779年:スリブンニャサーン王の治世中のシャム軍による侵略時。
  • 1827年:アヌヴォン王の治世中のシャム軍による侵略時。ビエンチャンを徹底的に破壊した。ワット・オントゥ・マハヴィハーンは本堂が燃やされ仏像が破壊されたが、オントゥ仏像を持ち去ることができなかった。腹いせにオントゥ仏像を燃やしたが、破壊することはできなかったとされる。
  • 1873年:ホー族による略奪時。

再建と復興

  • 1911年と1927年: フランスの記録によると、現在の本堂が再建。
  • スリランカから移植された菩提樹
    1938年2月14日: スリランカのナーラダー大長老(Narada Maha thera)が菩提樹の苗を運び、本堂の北西側約15メートル離れた場所に植樹[11]
  • 1966年:シーサワン・ワッタナ王による、本堂の扉の再建。
  • 1984年:元将軍スントーン・パトムマヴォンと家族が、本堂と屋根装飾を修復。
  • 1984年と1988年:スムプーと家族が山門を建設。

出典

  1. ^ 『Guide pratique de Vientiane』Editions Vithagna、1974年。 
  2. ^ a b c d e f ມະຫາ ຜ່ອງ ສະມາເລີກ『ປວັດຫຍໍ້ວັດອົງຕື້ ມະຫາວິຫານ ນະຄອນຫຼວງວຽງຈັນ ສປປລ』ອົງການພຸດທະສາສະນາສັມພັນແຫ່ງ ສປປ ລາວ、1988年。 
  3. ^ a b Home” (英語). ວິທະຍາໄລຄູສົງອົງຕື້. 2025年7月12日閲覧。
  4. ^ ວັດອົງຕື້ມະຫາວິຫາຣ Vat Ongtue”. ວັດອົງຕື້ມະຫາວິຫາຣ Vat Ongtue. 2025年7月2日閲覧。
  5. ^ 『คำไหว้หลวงพ่อองค์ตื้อ 』本堂内石板、確認日2025-7-12。 
  6. ^ a b 『Guide pratique de Vientiane』Editions Vithagna、1974年。 
  7. ^ Phra Singkham Sîlacittõ (SINEKHALATH)『THE LAO SANHGA ADMINISTRATION IN SOCIALISM IN ACCORDANCE WITH MONK STUDENTS8 OPINIONS OF ONGTUE SANGHA COLLEGE, LAO PEOPLE8S DEMOCRATIC REPUBLIC』Mahachulalongkornrajavidyalaya University、2010年https://e-thesis.mcu.ac.th/storage/e1BBRbOJK6HUg8Dgeyd8wnG6Tl86k33te8FbvpAq.pdf 
  8. ^ ວິທະຍາໄລຄູສົງ ອົງຕື້ ເປີດຮັບສະໝັກສອບເສັງຄັດເລືອກເອົານັກສຶກສາ”. ວາລະສານ ສຽງວິທະຍາໄລສົງ (2025年6月22日). 2025年7月12日閲覧。
  9. ^ ຈົດໝາຍຊາວພຸດ (2008). “ຈົດໝາຍຊາວພຸດ”. ຈົດໝາຍຊາວພຸດ (ຈົດໝາຍຊາວພຸດ) 8 (2). 
  10. ^ ເລີ່ມພິທີເປີດຫໍພິພິທະພັນວັດອົງຕື້ມະຫາວິຫານ”. ວັດອົງຕື້ມະຫາວິຫາຣ Vat Ongtue (2025年2月8日). 2025年7月12日閲覧。
  11. ^ Most Venerable Phramaha Phong Samaleuk (1996-03-04). “History of the Bodhi Tree”. ワット・オントゥ菩提樹の説明石版. 



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