チーム戦艦 YOKOHAMAとは? わかりやすく解説

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チーム戦艦 YOKOHAMA

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/25 02:24 UTC 版)

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チーム「戦艦」

神奈川県横浜市を中心に1970年代活動をした。横浜市内の若者が集まった走り屋チーム。(当時はまだ暴走族という言葉がなかった。)

1970年 神奈川県横浜市神奈川区、港北区在住の車好き若者数名が集り「旭日旗」のマークを車の後部ガラスに印刷して「戦艦」と名乗ったのが始まり。

1971年 横浜市内の中学校を卒業した同窓生が集まり二輪バイクチーム「戦艦」として正式なチームとして旗揚げをする。

    初代のリーダーとして、餅田和宏(彼は俄かバンドマンで当時は自称GSゴールデンカップスの親衛隊だった。)がまとめ役を務め、当時としては珍しい「白いブルゾンに赤のストライプが袖に2本、背中に朝日旗、黒字で戦艦のマーク」揃いのユニフォームを着用していた。

本牧周辺が走り屋で賑やかな時代、本牧産業道路に集まる「自称、走り屋」の中ではチームとして華やかな走りのテクニックやスピードなどで注目を浴びている。

1972年 「戦艦」は東京渋谷、皇居前にも進出。当時としては珍しい「ウィリー(フロントアップ走行)」の名手、野上という男がいた。

彼は単独でも、後部座席の二人乗りでも、皇居前の信号から信号までの距離のウィリー走行技を見せて、当時の東京のバイクチームを度肝を抜かせた。

週刊誌「平凡パンチ」に写真記事としてチーム戦艦の記事が掲載。テレビ番組「銀座ナウ」にも出演している。

最大時には準メンバーも含めると180名近い若者が集まっていた。

1973年 リーダー餅田をはじめ立ち上げ時のメンバーが四輪に移り、後輩の尾島が仮リーダーとして活動をしていたようだが、世間では「暴走族」という言葉が使われ始め犯罪紛いのグループが各地にでき始め、社会的に活動も厳しい時代へと移っていた。

戦艦メンバーも分散し(なかにはユニフォームが後輩に引きづかれたそうだ)やがては自動消滅する。

ウィリー走行の名手、野上たち数台のバイクが北海道へツーリングの旅へ行った帰り、横浜高島桟橋フェリー乗り場で「日の丸」を掲げ「海ゆかば」のBGMを流しがしら戦艦メンバーが彼らを迎えたのは伝説となっている。

当時としては、硬派なチームだったと言えよう。

先の大戦後に生れた「カミナリ族」、そして好景気に浸かる時代の「暴走族」へと変わって行く時代に生まれた「戦艦」。

ハマッ子たちの気質が溢れたチームであったことは間違いない事実である。




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