シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)の意味・解説 

シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/20 07:28 UTC 版)

シェフザーデ・ムスタファ1515年 - 1553年)は、スレイマン1世の息子。

生涯

生い立ち

1515年8月16日にスレイマン1世とその愛妻のマヒデヴランとの間に生まれた。ムスタファはスレイマン1世の皇子の中で最初に成人できた息子であったが父はムスタファよりも異母弟のメフメトを溺愛していたがムスタファとメフメトの仲は良好であった。幼い頃はマニサで育ち、オーストリアの大使は「スレイマンにはムスタファという息子がおり、礼儀正しく、慎重な性格で高貴な人である」と述べている。ムスタファが9歳の時にベネツィア大使は「ムスタファ皇子は並外れた才能をもっており、将来戦士となってイェニチェリに支持されるだろう。」と述べてる。

知事として

1529年にムスタファはカラマン州の知事に任命された。その後、1541年にはアマスィヤの知事に任命された。ところが弟のメフメトはマニサの知事となり(マニサは皇太子になる皇子が赴任する場所である)、もう2人の弟のバヤズィトとセリムはそれぞれコンヤとキュタヒヤの知事に任命された。1543年にメフメトは死去したがマニサの知事はセリムが任命され、ムスタファはアマスィヤの知事に留任になった。

ムスタファはアマスィヤでは大帝国の統治の訓練をし、東方のサファヴィー朝からアナトリアを守護する任務を背負った。1547年の父スレイマンの遠征中、父と会い、政治状況について話し合ったという。1549年にはこれまでの報酬としてコンヤの知事に就任した。しかし人々の間では継母のヒュッレムと大宰相のリュステム・パシャがムスタファの命を脅かそうとしてると噂された。

死去

1553年のスレイマンの東方遠征中、スルタンの軍隊はエレリに進駐した。その間、リュステム・パシャらはムスタファに軍を率いて父帝と合流するように要請した。しかしリュステムはその一方でムスタファ皇子が軍隊を率いてスルタンの命を奪おうとしているスレイマンに讒言した。そのためスレイマンはムスタファを自身のテントに呼び、処刑を命じた。ムスタファはテントに入ったところを襲われて、長時間抵抗したが最後はリュステムの側近のマフムト・アガによって絞殺された。

死後

関連項目



このページでは「ウィキペディア」からシェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書からシェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書からシェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年) を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)」の関連用語

シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのシェフザーデ・ムスタファ (1515年 - 1553年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS