クレセンティア・ブールガン
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マリア・クレセンティア・ブールガン(Maria Crescentia Bourgin, 1806年5月3日 フュッセン - 1853年6月22日 ヴァラーシュタイン)は、ドイツ・バイエルン王国の高官であったエッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯ルートヴィヒの最初の妻、貴賤婚配偶者。称号は侯夫人(Fürstin zu Öttingen-Öttingen und Öttingen-Wallerstein)。
生涯
フランス東部ブルゴーニュ地方出身で、エッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯家の居城バルデルン城の庭師をしていたニコラ・ブールガン(Nicolas Bourgin)の娘に生まれる[1]。1823年7月7日ボプフィンゲン郊外ケルキンゲンにて、主家である侯家の当主ルートヴィヒ侯と結婚、間に2人の娘をもうけた[2]。
- カロリーネ・アントイネッテ・ヴィルヘルミーネ・フリーデリケ(1824年 - 1883年) - 1843年フーゴー・ヴァルトボット・フォン・バッセンハイム伯爵と結婚
- テレーゼ・ヴィルヘルミーネ・フリーデリケ・クレセンティア(1827年 - 1833年)
シュタンデスヘル身分と平民との結婚は貴賤結婚とされ、ルートヴィヒ侯は家督を弟に譲ることを余儀なくされた。しかし親友であったバイエルン王ルートヴィヒ1世が1825年に即位すると、ルートヴィヒ侯はミュンヘン宮廷において重用され、一時外されていた宮内長官職に復帰し、内務大臣やパリ駐在大使などの職にも就いた[1]。クレセンティアが1853年に死んだ後、ルートヴィヒ侯は伯爵令嬢アルベルティーネ・ラリッシュ(1819年 - 1900年)と再婚して1870年まで生きた[3]。
1833年、ルートヴィヒ王の蒐集する美人画ギャラリーのモデルの1人に選ばれ、肖像画が制作された[4]。長女カロリーネも1843年に美人画ギャラリーのモデルに選ばれ、母子でモデルを務めた唯一の例となった。
ギャラリーを現在飾っているのは1833年版の最初の肖像画ではなく、1836年に宮廷画家ヨーゼフ・カール・シュティーラーが描き直した2枚目のヴァージョンである。現存の肖像画は、1833年版をベースにはしているが、肖像画自体には様々な特色が付け加えられた。画中の侯夫人クレセンティアは、襟布(タッカー)の付いた襟ぐりの深いマルーンのガウンに身を包み、髪にリングレット、レース編みのスカーフ、真珠のヘッドバンドを付けている。背景の柱状物をモチーフとしてより目立たせるため、1833年版よりもモデルの上半身がさらに下部まで描きこまれ、左前腕及びワスレナグサの花を握った左手が付け加わった[5][1]。
引用・脚注
- ^ a b c “Joseph Stieler - Crescentia Fürstin von Oettingen-Oettingen und Wallerstein” (英語). www.neumeister.com. 2023年10月27日閲覧。
- ^ (ドイツ語) Berliner Kalender: für 1845. Plahn. (1845). p. 46 2021年2月12日閲覧。
- ^ Kreisbote https://www.kreisbote.de › ... › Füssen Serie »Füssen und seine Historie«: Crescentia von St. Mang in der ..., https://www.kreisbote.de/lokales/fuessen/serie-fuessen-seine-historie-crescentia-mang-schoenheitsgalerie-koenig-ludwig-8594967.html
- ^ S. K. Ludovic, "A King's Gallery of Beauty" Strand Magazine (January 1902): 16–23.
- ^ Royal Collection Trust https://www.rct.uk › collection › cre... [Crescentia Bourgin, Princess of Oettingen-Wallerstein] c. 1833–70, https://www.rct.uk/collection/608937/crescentia-bourgin-princess-of-oettingen-wallerstein
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