ガスパール・ファン・エイクとは? わかりやすく解説

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ガスパール・ファン・エイク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/01 22:40 UTC 版)

ガスパール・ファン・エイク
Gaspar van Eyck
ファン・エイク作「ガレー船のある地中海の海の風景」
生誕1613年2月6日(洗礼日)
アントウェルペン
死没1674年以前
ブリュッセル

ガスパール・ファン・エイク(Gaspar van Eyck、Casper van Eyckとも、1613年2月6日が洗礼日 - 1674年以前に没)は、17世紀フランドルの画家である。風景画や海洋画、海戦を題材にした作品を描いた。ジェノヴァやマドリードでも働いた[1]

略歴

アントウェルペンで、リエージュ司教領出身の仕立て屋の息子に生まれた。弟に戦争の場面や騎馬人物を描いた画家のニコラース・ファン・エイク(Gaspar van Eyck: 1617-1679)がいる。[2]

1625年から海洋画を得意とするアントウェルペンの画家アンドリース・ファン・エールトフェルト(Andries van Eertvelt: 1590-1652)の弟子になり、アントウェルペンの聖ルカ組合に登録され、1632年か1633年に親方として組合に登録された[3] [4]

1632年にジェノヴァに旅した。ジェノヴァでは、アントウェルペン出身の画家、版画家、画商のコルネリス・デ・ワール(Cornelis de Wael: 1592-1667)のもとで働いた[1] 。コルネリス・デ・ワールは兄のルーカス・デ・ワール(Lucas de Wael: 1591-1661)と1628年にジェノヴァに工房を開き、多くのフランドル出身の画家が働いたり、訪問したりしていた[5]

ローマなどで働いた後、1649年と1950年には、スペインのマドリードの宮廷で働いた可能性が高いとされる。プラド美術館には1649年の日付のあるガスパール・ファン・エイクの作品2点などが収蔵されている。マドリードではカンブレー生まれで1630年代の終わりからスペイン宮廷で働くジョヴァンニ・ディ・フィリッポ・デル・カンポ(Giovanni di Filippo del Campo: 1600-1648)と共作し、ファン・エイクの海洋画に人物を描いたとされている.[6]。1656年にアントウェルペンに戻るが、その年ブリュッセルに移り、亡くなるまでブリュッセルで暮らしたが、精神を病み両親の死後、聖職者であった兄の保護を受けたとされる[1]

作品

参考文献




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