ラジオはアメリカン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 08:59 UTC 版)
出演者
パーソナリティ
- 初代(1期):大橋照子[注 17][注 18]
- 1983年2月 - 3月は、大橋が産休のため、岡本りん子が代理でパーソナリティを務めた。
- 大橋の結婚、妊娠の報告は番組内では積極的に紹介してはいないが、何となくは言われており、投稿ネタにされることもあった。
- 1985年4月、大橋の夫のアメリカ転勤に伴い、同行するために番組を降板した。後の「斉藤洋美のラジオはアメリカン」放送の初期には、番組内に大橋の番組コーナー「照子のアメリカン」があり、アメリカから自身の収録によるテープ録音や、時には国際電話での録音により番組に参加していた。独自にアメリカでの「私書箱」を設け、番組リスナーよりの手紙の募集もしていた(日本の番組私書箱での手紙などの募集もしており、アメリカに送っていた)。番組コーナー終了後も、時折テープ録音や国際電話での録音によって登場することもあった。アメリカからの帰国後も、何度か録音などにより短く出演したことがある。
- 番組内では、通称「ラジアメの母」(この呼称は斉藤洋美時代に定着し、大原のりえ時代にも同じく用いられた)。
- 1983年2月 - 3月は、大橋が産休のため、岡本りん子が代理でパーソナリティを務めた。
- 2代目(2期):斉藤洋美[注 19]
- 3代目(3期):大原のりえ[注 20]
構成作家
- 鶴間政行
- 「ラジオはアメリカン」番組全時代を通じて番組構成作家として番組に参加し、番組収録時に収録スタジオ内(録音ブース内)に同席し番組進行等を行う。
- 大橋照子時代の初期には、時折「笑い声」や「相槌」が放送に流れていた。後に、大橋に促されたりして、ちょっとしたコメント等やハガキ等の投稿先住所のアナウンス等もさせられており、頻繁ではないが番組内ではしゃべっていた。ほどなくして、番組内で頻繁にしゃべる機会も増え、番組パーソナリティの「相方役」として定着し、「相方役」として無くてはならない存在となる。
- 斉藤洋美時代になってからも引き続き、番組構成作家として番組に携わり「相方役」として、番組では「より無くてはならない存在」となる。後の大原のりえ時代も同じく番組に参加。
- 番組イベントの構成も担当し、番組イベントでは自らが出演することも多くなり、斉藤洋美時代には頻繁に番組イベントに出演した。出版した「番組本」の構成もしている。
- 番組内のコーナーを数カ月ごとに新しく提案し、例を出して新コーナーの紹介をし、ハガキ募集も行われて番組コーナーとなるが、投稿数が少なかったり、投稿内容の面白さなどで番組コーナーが数週間で消滅してしまう企画もあり、結果的には新コーナーの企画内容がイマイチだったとのことで「企画倒れの鶴間」と揶揄されていたこともある。
固有名詞の分類
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