ホテル・ベルビュー・ドレスデン 歴史

ホテル・ベルビュー・ドレスデン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 05:58 UTC 版)

歴史

1724年に着工したこのバロック様式の建物部分は、グローセ・マイスナー通り沿いに隙間なく建てられた都市ブルジョアの住宅の家並みの一部となった。設計はゲオルゲ・ベーアが行った。1723年から24年にかけて施工された前部の建家の責任者はヨーハン・ゲオルク・ゲープハルトであった。この建物は1733年まで住宅、ビール醸造所、麦芽製造所として利用された。ザクセンの宮廷はこの建物を、書記局に改造する目的で購入した。改築の設計は1734年に、ドレスデンツヴィンガー宮殿を設計した建築家マテウス・ダニエル・ペッペルマンが行い、アンドレアス・アダムが施工した。1733年から書記局として利用されたことで、この建物の最終的な建築形態が決まった。

書記局としての利用が、その後の利用形態を特徴づけた。このグローセ・マイスナー通り15番地のバロック建築は1736年以降、特に官公庁として利用された。このような事情により、この建物は「レギールング(政府)」または「コレーギエンハウス(参事会会館)」と呼ばれるようになった。

この建物はもともと別々の建物であった都市ブルジョアの邸宅と小さな宮殿を結合させたものである。そのためこの建物は2つの中庭を持つ構造になっている。

アウグスト強王は「日本宮殿」(ヤパーニッシェス・パレー)の建設を命ずると共に、都市計画をエルベ川の新市街側で集中的に進めた。ドレスデン新市街の価値を高め、旧市街に対抗させようとしたのである。15番地の建物を書記局の建物に選定したことも、新市街側を官庁街として特徴づける計画の一環であった。1904年まで、15番地の建物には法務省が入っていた。この国有の建物はその後、とりわけ州政府、州管理局、管区官庁、会計検査院として使われた。


第二次世界大戦中の1945年2月13日から15日まで続いた英米空軍による爆撃でドレスデンの市街が破壊されたとき、この15番地の建物は無傷のままで残った数少ない建物の一つであった。周囲の廃墟はその後撤去された。1950年にはこの15番地の建物も取り壊されることになったが、市民の抗議によって、計画されていた爆破は中止された。このバロック建築は、取り壊しを免れた後、1980年代の初めまで様々な用途に利用された。とりわけ家族企業「ヘッカース・ゾーン」の本店となった。同社は15番地の金物店の他に市内の数か所で支店を営んでいた。この建物は利用されてはいたが、手入れが行き届かなかったため崩壊していった。そのため1980年代の初めに取り壊され、新しいホテルの複合建物が建てられることになった。文化財保護団体、建築家、憤激した市民による市民運動によって文字通り最後の瞬間に取り壊しが阻止された。このバロック建築は中央建物として新たに設計されるホテルの建築に組み込まれることが決定された。







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