チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道
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チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道(チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッドてつどう、英語: Charing Cross, Euston and Hampstead Railway、CCE&HR)は、1891年に設立された、ロンドンの大深度地下鉄会社である[注釈 1]。チューブと呼ばれる断面の小さなトンネルを使用した地下鉄の一路線で、ハムステッド・チューブ(英語: Hampstead tube)とも呼ばれた。資金集めに難航したことから、創立後10年以上着工されないままとなっていたが、1900年にはアメリカ人投資家チャールズ・ヤーキス率いるロンドン地下電気鉄道(英語:Underground Electric Railway of London、UERL)の一部となり、ヤーキスが主にイギリス国外で募った出資で建設資金を集めることに成功している。各種路線案が検討され、議会に認可を申請したが、ほとんどの案は不認可となり、結局ハムステッド・ヒース地下を通る路線案がヒースの環境に深刻な影響を与えると主張する地元住民の反対を押し切って採用された。
注釈
- ^ ロンドンの地下鉄は、開削工法で建設された比較的浅い地下を走る半地表路線(英語: Sub surface)と、シールド工法で建設された大深度路線(英語: Deep lebel)に大別される。前者は19世紀に起源をもつ路線で、当時の技術の限界から、地下といってもふたをかぶせた掘割の中を走るもので、「半地表」の名前もここに由来している。後者は、当時最新のシールド工法を用いて建設されたが、当時のシールトンネル技術の限界から、トンネル断面積が狭く、車両も小型にならざるを得なかった。21世紀の技術水準からみれば20世紀初頭に開業した路線の深度は深いものではないが、開削工法でつくられた半地表路線よりは深いところを走るため、21世紀初頭でも大深度路線(Deep level tube)と呼ばれている。
- ^ アメリカ、イギリス、カナダなどにある特定の個人、法人、地域に適用される法律であり、日本の法律とはやや性格が異なるものであることに注意を要する。
- ^ 開業初年に510万人の乗客を集めた[4]
- ^ セントラル・ロンドン鉄道1891年8月5日、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道は1892年6月28日、ウォータールー・アンド・シティ鉄道は1893年3月8日、 チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道1893年8月24日にそれぞれ女王裁可を得ている[6]。
- ^ この種の個別的法律では工事完成までの時間短縮を促すこと、未実現の計画が他の新しい計画を阻害しないよう期限付きとされていた。
- ^ 1900年から1902年にかけてヤーキスの投資家集団はチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道(1900年9月)、メトロポリタン・ディストリクト鉄道(1901年3月)、ブロンプトン・アンド・ピカデリーサーカス鉄道、グレート・ノーザン・アンド・ストランド鉄道(共に1901年9月)、ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道(1902年3月)を相次いで買収している[15]。
- ^ ヤーキスはロンドン地下電気鉄道の会長に就任し、ロンドンのスパイヤー・ブラザース銀行、ニューヨークの投資会社スパイヤー、ボストンのオールド・コロニー・トラストが出資に応じた[15]。
- ^ アメリカでヤーキスが資金集めに用いた手法と同様、ロンドン地下電気鉄道の資金構造は高度に複雑で、将来の収入を見込んだ複雑な金融技術が用いられた。ここでは過分に楽観的な乗客数の予想が用いられ、出資者の多くは期待した利益を得られずに終わることになる[17]。
- ^ ハイゲート・ロード脇の車両基地用地はゴルダーズ・グリーンの用地よりも狭かった。
- ^ 鉄道建設前、ゴルダーズ・グリーンの土地は11 ac (0.4 ha)あたり200ポンドから300ポンド程度だったが、工事開始後に600ポンドから700ポンドに高騰している[27]。
- ^ 既存路線の延長提案に加えて、1901年の議会には7つの大深度地下鉄の路線案が出され[28]、ほとんどの提案に国王裁可が出されたが、すべて建設されることなく終わっている 。
- ^ リブルスデール卿の委員会は南北に走る路線案を審議し、ウィンザー卿の委員会は東西に走る路線案を審議した[32]。
- ^ スタンディング・オーダーとして知られる規則と手順が個別的法律案に適用され、これを満足しない個別的法律案は否認された。鉄道に関する個別的法律案に対しては、前年の11月にロンドン・ガゼットに設置計画を掲載し、利害関係者に路線案を提示し、建設費見積額を公開しなければならなかった。更に建設費見積の5パーセントを裁判所に預託することが求められていた[34]。
- ^ 原文では”tube”と表記されており、「配管」としてのtubeと地下鉄の愛称としてのtubeをかけている。
- ^ 原文では「堅い」と「無意味な」が同じ” impervious”という形容詞で表現されている。そのまま日本語にしてしまうと意味不明な表現になるが、上記の例と同じくイギリス的な言葉遊びの例として、ここではこう訳しておく。
- ^ この駅、ノース・エンドはブル・アンド・ブッシュという有名なパブに隣接していたことから、ブル・アンド・ブッシュとも呼ばれた。
- ^ この提案には、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道とベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道をロンドン地下電気鉄道傘下のグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道(英語: Great Northern, Piccadilly and Brompton Railway、GNP&BR)に吸収し、ロンドン地下連合電気鉄道に改称することも含まれていたが、提案のこの部分は議会で否認されている。[41]
- ^ ゴルダーズ・グリーン駅はレンガ造り、トテナム・コート・ロードは地下道駅が直結した地上構造物をもたない構造、チャリング・クロスは既存の鉄道駅に併設とされており、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道ではこの3駅だけがレスリー・グリーンの標準設計を採用していない。
- ^ アメリカのオーチス製[45]のエレベーター[45]2基が直径23-フート (7.0 m)の穴に設置された[46]各駅の予想利用人数によりエレベーターの設置基数が決められ、たとえばハムステッドには4基が設置された一方、チョーク・ファームとモーニントン・クレセントには2基しか設置されなかった[47]
- ^ 認可済みの個別的法律案でチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道はチャリング・クロス駅前の大半の用地を掘削する権利を有していたが、1905年法によって駅前全体を掘削することが可能となった[52]。
- ^ ロンドン地下電気鉄道によるグレート・ノーザン・アンド・ブロンプトン鉄道の初年度乗客数想定は6000万人、ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道は同様に3500万人だったが、実績はそれぞれ2600万人、2500万人にとどまった。ディストリクト鉄道の乗客数は電化により1億人に増加するとされていたが、これも実績は5500万人に終わっていた[63]。
- ^ ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道とチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の資産をグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道に移し、グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道の名称をロンドン電気鉄道に変更する形で会社統合が行われた。
- ^ このループ線の一部はこんにちでもノーザン線北行、急曲線を描くホームの一部として使われている。
- ^ ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道とメトロポリタン・ディストリクト鉄道の駅は異なる名前だったが、ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道の駅はチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の駅と併せて「チャリング・クロス(エンバンクメント)」に改名された。メトロポリタン・ディストリクト鉄道の駅は「チャリング・クロス」のまま残った[60]。
- ^ 1915年5月9日、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道のチャリング・クロス(エンバンクメント)はチャリング・クロスに、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道のチャリング・クロス駅はチャリング・クロス(ストランド)を経てストランドに、グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道のストランドはアルドウィッチに改名された[60]。
- ^ ロンドン地下電気鉄道は1913年1月1日に株式交換によりシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道とセントラル・ロンドン鉄道を買収した[83]。
- ^ こんにちのノーザン線と同様、この路線のラインカラーは黒とされたが、「ハムステッド・アンド・ハイゲート線」と「シティ・アンド・サウス・ロンドン線」の名前が表示されていた[84]。
- ^ 第一次世界大戦中、ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道はパディントンからワトフォード・ジャンクションまで延伸していた。戦後の1920年にはセントラル・ロンドン鉄道がウッド・レーンからイーリング・ブロードウェイまで延伸していた [60]。
- ^ ロンドン・ゼネラル・オムニバスは、ロンドン市内のバス路線をほぼ独占することで高収益を上げ、地下鉄会社をはるかにしのぐ高配当を出していた。ロンドン地下電気鉄道によって買収される前年の1911年のロンドン・ゼネラル・オムニバスの配当は18パーセントだった[85]。
出典
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- 1 チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道とは
- 2 チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道の概要
- 3 共同運行と統合 1906年–1910年
- 4 延伸
- 5 公営会社への移行 1923年–1933年
- 6 その後
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