青年日本交響楽団
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青年日本交響楽団(せいねんにほんこうきょうがくだん)は、昭和期の戦前から終戦直後まで活動した日本のオーケストラ[1]。1936年末に作曲家服部正が中心となって「コンセール・ポピュレール」の名称で創設[2](「コンセル・ポピュレール」とも呼ばれた[1])。1940年「青年日本交響楽団」(略称は青響)と改称し、1946年まで活動を続けた[3]。欧文名称はConcert populaire[1]。
注釈
- ^ 当時パリに留学した日本人には、小松耕輔(1920年‐23年)、池内友次郎(1927年-1936年)、外山道子(1930年-39年)などがおり、音楽雑誌にも海外の音楽事情を伝える記事が書かれていた。1933年にはパリで活躍していたピアニストのタンスマンが来日し、新興作曲家連盟の作曲家たちと交流している。
- ^ NHK交響楽団, 1981, p46-47には、1946年11月21日に日比谷公会堂で、青響が服部正の指揮で金井喜久子作曲『梯梧の花の咲く頃』を初演したという情報が掲載されている。1947年11月26日には日響が同じ曲を演奏している記録(木村, 1985, p145)があるので、1946年の演奏も日響の可能性がある。また終戦直後の演奏は青響と日響の合同であったと服部は記している(服部, 1958, p175)ので、1946年11月の演奏も合同で行われ、青響の名称が使われた可能性もある。日外アソシエーツ, 2008, p.525には「1947年まで活動を続けた」とあるように、団体としては解散しても名称は使われていたのかもしれない。
出典
- ^ a b c d e 木村 1985, p. 113.
- ^ a b 服部 1958, p. 111.
- ^ a b 服部 1958, p. 176.
- ^ 服部 1958, p. 108-109.
- ^ 慶應ワグネル 2002, p. 13-14.
- ^ 服部 1958, p. 110-111.
- ^ 服部 1939, p. 26.
- ^ 田崎 2022, p. 108-109.
- ^ 遠山, 海老沢, 1989 & p1285.
- ^ 音楽大事典, 1982 & p1903-1904.
- ^ 服部 1958, p. 111-116.
- ^ 服部 1958, p. 116-118.
- ^ a b c 木村 1985, p. 121.
- ^ 服部 1958, p. 148-149.
- ^ 服部 1958, p. 159.
- ^ 服部 1958, p. 160.
- ^ a b 服部 1958, p. 111-112.
- ^ 服部 1958, p. 115.
- ^ 木村 1985, p. 115.
- ^ 木村 1985, p. 117.
- ^ 高見 1939.
- ^ 慶應ワグネル 2002, p. 14.
- ^ 木村 1985, p. 125.
- ^ 木村 1985, p. 129.
- ^ 木村 1985, p. 131.
- ^ 木村 1985, p. 133.
- ^ 服部 1958, p. 161.
- ^ 服部 1958, p. 163.
- ^ 服部 1958, p. 166ー167.
- ^ 服部 1958, p. 168-169.
- ^ 服部 1958, p. 175.
- 1 青年日本交響楽団とは
- 2 青年日本交響楽団の概要
- 3 演奏会
- 4 参考文献
- 5 関連項目
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