長松太郎
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長松 太郎(ながまつたろう、1912年(大正元年)8月7日[1] - 1978年(昭和53年)10月24日[2])は、広島市建設局長[3]、広島市助役、広島ステーションビル社長を歴任した日本の都市計画家。造園家。日本公園緑地協会で沖縄国際海洋博海浜公園基本計画委員会委員長、広島市河岸緑地整備計画設計協議会委委員も委嘱。設計策定にあたった。豪放な性格で酒を好み周囲から慕われていたという[4]。
- ^ 『華族名簿 昭和18年7月1日現在』(華族会館、1943年)179頁
- ^ a b 『公園緑地』39巻4号(日本公園緑地協会、1979年)100頁
- ^ 昭和四十六年九月六日発刊 広島原爆戦災誌 第二巻 第二編各説
- ^ 森堯夫(1988)「長松太郎」『都市計画』37(3)(153) 日本都市計画学会
- ^ 古市公威 ー勲功華族・古市男爵家ー | 近代名士家系大観
- ^ 各団体取組概要 一覧表 団体名 取組
- ^ 1970 年度学会賞受賞作品・授賞理由
- 1 長松太郎とは
- 2 長松太郎の概要
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