長崎県立佐世保中学校 (旧制)
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旧制長崎県立佐世保中学校(きゅうせいながさきけんりつ させぼちゅうがっこう)は、1908年(明治41年)長崎県により佐世保市に設置され、翌1909年(明治42年)に開校した旧制中学校。略称は「佐中」(さちゅう)。
- ^ 読みは「じきょう」。意味は「自ら努め、励むこと」。「彊」は「強」の旧字体。
- ^ この標語は、長崎県立佐世保南高等学校の校訓(自彊自律・和敬礼節)として継承されている。また、「自律」は長崎県立佐世保北中学校・高等学校の校訓(自律・積極・友愛)として継承されている。
- ^ 在職期間は1909年(明治42年)3月から1918年(大正7年)7月まで。群馬県安中市出身。広島高等師範学校卒業。
- ^ 第七代校長 大野芳磨による。長崎県立佐世保中学校創立100周年記念「草木ヶ原」p.21
- ^ 田村虎蔵 - 鳥取県文化観光局ウェブサイト
- ^ 東京帝国大学工学部建築学科卒業の駒杵勤治(こまきねきんじ)による設計。木造2階立てで、屋根に尖塔を置いていた。現在は解体され、佐世保市立清水小学校の校地となっている。なお、清水小学校の校門門柱はかつての佐世保中学校校舎を模した尖塔のついたデザインとなっている。また、駒杵勤治は同時期の佐世保市役所庁舎のデザインも行った。駒杵の略歴(コトバンクウェブサイト)を参照。
- ^ 第九章 明治時代の佐世保 - 佐世保市ウェブサイト(長崎県立佐世保中学校草木ヶ丘校舎の画像が掲載されている。)
- ^ 1. 長崎県立佐世保第一高等学校(旧・長崎県立佐世保中学校)、2. 長崎県立佐世保第二高等学校(旧・長崎県立佐世保第二中学校)、3. 佐世保市立東和高等学校(旧・佐世保市立東和中学校)の男子校3校と、4. 長崎県立佐世保女子高等学校(旧・長崎県立佐世保高等女学校)、5. 佐世保市立成徳高等学校(旧・佐世保市立成徳高等女学校)の女子校2校、計5校。
- ^ 佐世保市立山澄中学校区以東を佐世保南高等学校、佐世保市立旭中学校区以西を佐世保北高等学校とした。なお、小佐世保川周辺の旭中学校区の生徒は、佐世保南か佐世保北かを選択できるようにした。
- ^ もともと佐世保市内には15校の中等学校があり、それらは新制高等学校に昇格し、その後統合・再編が進められた。ここで佐世保市としては県立高等学校4校設置を求めていたが、ニブロ米占領軍軍政部教育官の方針で、結果的に佐世保北高等学校・佐世保南高等学校、佐世保商工業高等学校(佐世保商業高校と佐世保工業高校の統合)の3校の設置となった。なお、佐世保商工業高等学校は後に商業高校と工業高校に分離し、再び独立校となっている。
- ^ 旧制佐世保中学校・佐世保第一高等学校の学籍簿等も佐世保南高等学校に継承された。
- ^ 記念式典には佐世保北高等学校・佐世保南高等学校両校の2・3年生が参加。
- ^ 長崎県立佐世保中学校創立100周年記念式典に参加して - 柏葉会(佐世保南高等学校同窓会)ウェブサイト
- ^ a b その後大阪府立住吉中学校(現 大阪府立住吉高等学校)に転校し、長崎県に戻ってきて、長崎県立諫早中学校(現 長崎県立諫早高等学校)を卒業。
- ^ 下村脩博士「佐世保市名誉市民顕彰式」(PDF)- 「広報させぼ」佐世保市ウェブサイト
- ^ 1944年(昭和19年)4月に旧制佐世保中学校に入学。1948年(昭和23年)4月の新制高校発足時に佐世保第一高等学校2年生、1949年(昭和24年)2月に佐世保南高等学校2年生となる。1950年(昭和25年)3月に佐世保南高等学校を卒業。
- 1 長崎県立佐世保中学校 (旧制)とは
- 2 長崎県立佐世保中学校 (旧制)の概要
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