鄭鼎 (元)
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鄭 鼎(てい てい、? - 1277年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人の一人。沢州陽城県の出身。
- ^ 牧野2012,363頁
- ^ 牧野2012,363頁
- ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「鄭鼎、沢州陽城人。幼孤、能自立、読書曉大義、不妄言笑。既長、勇力過人、尤善騎射。初為沢・潞・遼・沁千戸。歳甲午、従塔海紺不征蜀、攻二里散関、屢立戦功、還屯秦中。未幾、宋将余侍郎燒絶棧道、以兵囲興元、鼎率衆修復之、破宋兵、解興元之囲。乙巳、遷陽城県軍民長官」
- ^ 牧野2012,363/380頁
- ^ 牧野2012,363頁
- ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「庚戌、従憲宗征大理国、自六盤山経臨洮、下西蕃諸城、抵雪山、山徑盤屈、舍騎徒步、嘗背負憲宗以行。[10]敵據扼險要、鼎奮身力戦、敵敗北、帝壮之、賜馬三匹。至金沙河、波濤洶湧、帝臨水傍危石、立馬観之。鼎諫曰『此非聖躬所宜』。親扶下馬、帝嘉之。俄囲大理、晝夜急攻、城陷、禽其主、大理平。師還、命鼎居後。道経吐蕃、全軍而帰。辛亥、入朝、帝問以時務、鼎敷對詳明、帝嘉納之、賜名曰也可拔都」
- ^ 牧野2012,363頁
- ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「己未、賜白金千両。従世祖南伐、攻大勝関、破之。継破台山寨、禽其守者胡知県、乗勝獨進、前陷泥淖、遇伏兵突出葭葦間、鼎奮擊、連殺三人、餘衆遁去。帝急召鼎還、使者以聞、帝曰『為将当慎重、不可恃勇軽進』。遂分畀衛士三百人、以備不虞、且戒之曰『自今非奉朕命、毋得軽与敵接』。秋九月、帝駐蹕江滸、命諸将南渡、先達彼岸者、挙烽火為応、鼎首奪南岸、衆軍畢渡。進囲鄂州、戦益力。別攻興国軍、遇宋兵五千、力戦破之、擒其将桑太尉、責以懦怯、不忠所事、斬之」
- ^ 牧野2012,363頁
- ^ 牧野2012,248-249頁
- ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年五月]乙未、立十路宣撫司。……詔平陽・京兆両路宣撫司簽兵七千人、於延安等処守隘、以万戸鄭鼎・昔剌忙古帯領之、貧不能応役者、官為資給」
- ^ 牧野2012,303頁
- ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「中統元年、以功遷平陽・太原両路万戸。阿藍答児・渾都海之乱、鼎分率本道兵討之。二年、詔鼎統征西等軍、戍雁門関隘。遷河東南・北両路宣撫使。三年、改授平陽太原宣慰使。至元三年、遷平陽路総管。是歳大旱、鼎下車而雨。平陽地狹人衆、常乏食、鼎乃導汾水、溉民田千餘頃、開潞河鵬黄嶺道、以来上黨之粟。修学校、厲風俗、建橫澗故橋以便行旅、民徳之」
- ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「七年、改僉書西蜀四川行尚書省事、将兵巡東川。過嘉定、遇蜀兵、与戦江中、擒其将李越、悉獲戦船。八年五月、改軍前行尚書省事。十一年、従伐宋。十二年、鎮黄州。夏四月、改授淮西宣慰使。十三年、加昭毅大将軍、賜白金五百両」
- ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「十四年、改湖北道宣慰使、移鎮鄂州。夏五月、蘄・黄二州叛、鼎将兵討之、戦于樊口、舟覆溺死、年六十有三。十七年、董文忠等奏『鄭也可拔都遇害、其叛人家属物産、宜悉与其子納懷』。帝従之。贈中書右丞、諡忠毅。後加贈宣忠保節功臣・平章政事・柱国、追封潞国公、諡忠肅。子制宜」
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