速水柳平
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速水 柳平(はやみ りょうへい、1864年12月2日 - 1933年1月)は、実業家。二松學舎大学初代副幹事・理事[1]。株式会社取締役兼経営者・高島嘉右衛門番頭。妻・山川トキ、長女・速水淑子、婿・篠田熊蔵。後妻・石黒宗子、娘・石黒初子、長男・速水恕久。越後村上藩・速水藤右衛門(織部正)を祖とする速水藤右衛門9代目当。速水守久(加治田衆)の子孫である。
注釈
- ^ そして同じく【私】二松學舎入學同期朋友であり常任理事として速水の同僚であった池田四郎次郎理事69才も偶然なのか何者かの企みなのか、同年1月23日斯文會新年會祝宴ありて出席し、夜散し、帰途電車(一部記事には車)に接触し亡くなったとある。このわずか10年の間に二松學舎草創期の経営よく知る舎長・理事・顧問・監事が相次いで亡くなったため、昭和8年を境に、草創期を知るものが唯一佐倉孫三理事だけとなり、関係者不在のまま『二松學舎六十年史要』がまとめられた。二松學舎では学校史草創期の正当な評価が、創立135年を迎えている現在もなされずじまいで放置されたままである。又、現在二松學舎玄關に据えられている三島中洲銅像は、生前、速水理事が評議員会で提案し準備に奔走したもので、速水柳平没後に完成した銅像であることを明記
出典
- ^ 三島中洲研究 : 二松学舎大学日本漢文教育研究プログラム : 研究成果報告書。熱田セメント
- ^ 中洲會誌・第6號(昭和9年10月刊)佐倉孫三が亡・速水柳平に贈った弔辞(譯)
- ^ 二松學舎舎長・金子堅太郎からの感謝状(昭和7年11月)譯
- ^ 二松學舎 学友會誌 明治29年5月8日發行56頁 (譯)
- ^ 二松學舎百年史 321頁12行~ 三島中洲が二松義會会長理事を辞任したいと申し出た澁澤榮一に宛てた書簡 譯抜粋
- ^ 二松學舎百年史 323頁9行~
- ^ 二松學舎百年史 323頁14行~ 澁澤榮一が山田準に宛てた8月9日の書簡 (譯)
- ^ 二松學舎百年史 325頁15行~ 同じく三島中洲が澁澤榮一に宛てた書簡 (譯)
- ^ 中洲會誌第6號 昭和9年10月刊 佐倉孫三理事の投稿 譯
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