聖戦貫徹議員連盟
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聖戦貫徹議員連盟(せいせんかんてつぎいんれんめい)は、1940年(昭和15年)2月に斎藤隆夫が衆議院でおこなった反軍演説をきっかけとして、軍部を支持する議員が同年3月25日に結成した日本の超党派の議員連盟[1]。同年8月6日の常任幹事会で政党解消の側面的役割を果たしたとして解散を決定、新たな組織である新体制促進同志会に合流することを決定した[2]。
注
出典
- ^ a b c 林茂 2006, p. 171.
- ^ 新体制促進同志会に合流(『中外商業』昭和15年8月6日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p311 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 古川隆久 著「近衛新体制 大政翼賛会とは何だったのか」、筒井清忠 編『解明・昭和史 東京裁判までの道』朝日新聞出版、2010年、197頁。ISBN 978-4-02-259966-7。
- ^ a b c 粟屋憲太郎『日本の政党』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2007年、378頁。ISBN 9784006001889。
- ^ 古川隆久『戦時議会』吉川弘文館、2001年、89-90頁。ISBN 4-642-06658-6。
- ^ 古川『戦時議会』p.95.
- ^ 古川『戦時議会』p.100.
- ^ a b c d 粟屋『日本の政党』p.379.
- ^ “政界各層、俄然動き 新党樹立の機運濃化 : 成否の鍵は近衛公出馬”. 大阪毎日新聞. (1940年6月4日) 2013年12月14日閲覧。
- ^ “既存の政党運動誘導 : 速に全面的運動へ : 近く側近から近衛公へ進言”. 大阪毎日新聞. (1940年6月25日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ “解党勧告に民政明答せず : 聖貫連盟委員町田総裁訪問”. 大阪朝日新聞. (1940年6月26日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ “社大感慨の解党 : きょう解党大会開く”. 大阪朝日新聞. (1940年7月8日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ 林茂 2006, p. 173.
- ^ “自由主義を一擲 : 久原総裁が解党の辞”. 大阪朝日新聞. (1940年7月17日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ “同憂の士とともに日本再建に邁進 : 民政四十名遂に脱党す”. 大阪朝日新聞. (1940年7月26日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ “国民同盟解党”. 大阪毎日新聞. (1940年7月27日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ “政革派解党大会”. 読売新聞. (1940年7月31日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ “幕を閉じる民政党(上・下)”. 読売新聞. (1940年8月15日) 2013年12月15日閲覧。
- ^ 林茂 2006, pp. 172–175.
- ^ “政党"最期の城"陥つ : 新体制の嵐支え切れず : 民政党解党までの経緯”. 中外商業新報. (1940年8月15日) 2013年12月15日閲覧。
- 1 聖戦貫徹議員連盟とは
- 2 聖戦貫徹議員連盟の概要
- 3 脚注
- 聖戦貫徹議員連盟のページへのリンク