耶律天祐とは? わかりやすく解説

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耶律天祐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:00 UTC 版)

耶律 天祐(やりつ てんゆう、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。


  1. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝,「天祐襲職、従天倪攻取益都諸城、略滄・棣、得戸七千、兼滄棣二州達魯花赤、佩金符。時金塩山衛鎮塩場未下、天祐以計克之、歳運塩四千席、以佐軍儲。甲申、攻大名、抜之。乙酉、金降将武仙拠真定以叛、殺守将史天倪。忒末父子夜踰城而出、将以聞、会天倪弟天沢還自北京、遇諸満城、合蒙古諸軍南与賊戦、走武仙、復真定。朝廷以天沢襲兄爵、而以天祐鎮趙州」
  2. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝,「明年、仙復犯真定、天沢潜師出藁城、忒末与其妻石抹氏、及家孥在真定者、皆陥焉。仙遣其僕劉攬児、持書誘天祐曰『汝能誅趙州官吏以降、当活汝父母、仍授汝元帥。不爾、尽烹之』。忒末密令攬児語天祐曰『仙賊狡猾、汝所知也、毋以我故、堕其機穽、以虧忠節。且忠孝難両全、汝能固守、不失国家大計、我視刀鋸甘如蜜矣』。天祐慟哭承命、馳至藁城、以賊書示天沢。天沢曰『王陵之事、照耀史冊、汝能遵父命、忠誠許国、功不在王陵下』。天祐乃趨還趙壁、率衆殊死戦、仙怒、尽殺忒末家一十八人。戦于欒城・元氏・高邑・柏郷、仙兵屡挫。監軍張林密搆仙党、啓関納賊。天祐倉皇巷戦、手殺数十人、身被十餘瘡、斬関出、復収散卒囲城」
  3. ^ 『元史』巻193列伝80忠義1耶律忒末伝,「丁亥、賊棄城走、追至藁城、会天沢兵夾撃、殺林。加奉国上将軍・洺州征行元帥、兼趙州安撫使。以傷憊致仕、居趙、卒。孫世枻、朝列大夫・江西榷茶都転運使」


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