浪岡氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 19:53 UTC 版)
浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。
注釈
- ^ 史料的根拠の点で問題のあることが確認されている[2]。 顕家(または顕信)以前に浪岡姓を名乗る一族が存在し、顕家(または顕信)の子孫または入婿となったのが始まりとされることもある
- ^ 安永4年(1775年)に作成された京徳寺過去帳より具運がこの乱で殺害されたと比定されてきた。平成23年『補略』と総称される公家名簿の史料群が学会に相次いで紹介された。その補略には、浪岡具永が永禄6年(1563年)時点の生存を示している。ただし、この補略も記載の誤りがないわけではなく、同年の『補略』に見える浪岡国永は伊勢北畠家一門の小原国永であり、浪岡具永と誤認された可能性が高い。もっとも奥州北畠家の一員が、伊勢国小原(三重県松阪市嬉野)に所領を得て名字の地とした可能性もない訳ではない。その場合は小原家は波岡家の支流ということになる[8]
出典
- ^ 葛西善一『浪岡町史』津軽書房、1986年)
- ^ a b 赤坂恒明 2015, pp. 262.
- ^ a b c 葛西善一『浪岡町史』37P
- ^ 葛西善一『浪岡町史』津軽書房、1986年)
- ^ 元中3年1386年『南朝編年紀略(彰考館文庫)』
- ^ 浪岡町史編纂委員会 2000, p. 264.
- ^ 『左近顕忠覚書』
- ^ 赤坂恒明 2015, pp. 263、270-273.
- ^ 『浪岡町史』第二巻 中世Ⅱ 浪岡城と北畠氏特集(浪岡町、2004年)
- ^ a b c d 神田裕理編 2015, pp. 274.
- ^ 赤坂恒明 2015, pp. 274.
- ^ a b c d e 赤坂恒明 2015, pp. 278.
- ^ 北畠秋田(浪岡)氏三春町歴史民俗資料館、2018年3月14日
- ^ 浪岡北畠氏の足跡(4)~北畠顕家の戦死『広報なみおか』平成11年(1999)7月1日号
- ^ なみおか町史コラム(17)謎解きの愉しみ『広報なみおか』平成14年(2002)9月1日号
- ^ 赤坂恒明 2015, pp. 278–279.
- ^ a b c 赤坂恒明 2015, pp. 279.
- ^ a b 赤坂恒明 2015, pp. 280.
- ^ 児玉幸多 & 坪井清足 1980.
- ^ 赤坂恒明 2015, pp. 263.
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