松濤明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/24 06:36 UTC 版)
松濤 明(まつなみ あきら、1922年〈大正11年〉3月5日 - 1949年〈昭和24年〉1月6日)は、日本の登山家。
注釈
- ^ 松濤は最初は上高地に近くて山岳部のある松本高校への進学を希望していたが、登山に熱中しすぎたことで学業の不振を招き、2年間の浪人生活を送っていた。しかし、戦争の長期化で浪人生が徴兵される可能性が生じたため、急遽進路変更をしたという[4]。
- ^ 杉本光作によれば、復員した松濤は麻布にあった自宅を売ることにしたが、登歩渓流会の先輩である井上晧司(松濤の遺言に登場する「井上」にあたる人物)に話を纏めて貰ったことで、寝耳に水の形となった親族から非難されていたという[6]。
- ^ 同年8月に共に谷川岳に登った杉本光作は松濤から「今は占領下だけれど、いつかヒマラヤに登れる日がくる」と述べた上で、山をやるのはこの一年で、大学卒業と就職をしてヒマラヤに行くための準備を始めたい、と言う趣旨の話を打ち明けられたという[7]。
- ^ 遺言の最後の日付は6日であるが、春日俊吉は遺言に書かれた状況から実際には5日夜には死去していたのではないかとしている[12]。
- ^ 杉本らは2人の計画ではあと数日分の食料が残されているため、16日の時点では遭難したとは考えていなかったという。
- ^ 松濤の計画通り槍ヶ岳から焼岳に向かうには途中で穂高岳を縦走することになる。
- ^ 1月26日~2月5日に第1回、3月18日~29日に第2回、4月28日に第3回、7月8日~20日に第4回の捜索を行ったが積雪が多かったために雪解けが進まなかったことが障害となり、特に第3回目は悪天候もあって捜索自体が行えなかった。
出典
- ^ a b c d e “asahi.com:松濤明と芳田美枝子 - トラベル「愛の旅人」”. www.asahi.com. 朝日新聞社. 2022年4月10日閲覧。
- ^ a b 春日俊吉、1973年、pp.183.
- ^ 春日俊吉、1973年、pp.184.
- ^ 杉本光作、1983年、pp.318-319.
- ^ 春日俊吉、1973年、pp.185.
- ^ 杉本光作、1983年、pp.319.
- ^ 杉本光作、1983年、pp.323-324.
- ^ 春日俊吉、1973年、pp.185-186.
- ^ 春日俊吉、1973年、pp.177-178.
- ^ 東京農業大学山岳部(部の歴史)
- ^ 春日俊吉、1973年、pp.179-181.
- ^ 春日俊吉、1973年、pp.181-182・186-188.
- ^ 杉本光作、1983年、pp.302-315.
- ^ 中西俊明『YAMAMAPシリーズ①白馬岳・鹿島槍・唐松・五竜・針ノ木・蓮華・朝日』p99 2002年 山と渓谷社
- ^ 杉本光作、1983年、pp.318.
[続きの解説]
固有名詞の分類
- 松濤明のページへのリンク