松本弘子とは? わかりやすく解説

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松本弘子

松本弘子の俳句

少年の眉目まっすぐ夏野かな
柚子をもぐ日本海の端にいて
梅漬けてより物忘れはじまりぬ
法華寺も隠元豆も錆色に
雪に雪降りしく窓や口渇く
 

松本弘子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/07 12:53 UTC 版)

まつもと ひろこ
松本 弘子
1958年
プロフィール
生年月日 1935年8月11日
没年月日 2003年6月21日
没年齢 67歳(数え69)
出身地 日本 東京
瞳の色 ブラック
毛髪の色 ブラック
公称サイズ(時期不明)
身長 / 体重 174 cm / kg
活動
デビュー 1955年
ジャンル ファッション
モデル内容 一般
他の活動 女優
雑誌編集者
ブティック経営者
モデル: テンプレート - カテゴリ

松本 弘子 (まつもと ひろこ、1935年8月11日 - 2003年6月21日[1] )は、日本のファッションモデル女優、服飾評論家[2]である。

来歴・人物

東京府出身。1955年に成蹊高等学校を卒業[1][2]

高校在学中、『アサヒグラフ』の表紙モデルをつとめたことがきっかけで、フリーのプロファッションモデルとして活動開始[1]

1957年、森英恵の紹介を通じて、初来日したピエール・カルダンに見出され、フランスへ渡った。カルダンはファッションショーにおいて多様性を演出したいと考え、東洋人モデルの起用を求めていた[3]。松本は1960年パリ・コレクションにてファッションショーデビューし、前年の松田和子につづく東洋人2人目のパリコレモデルとなった。市松人形のようなボブカット[1][4]トレードマークに「東洋のヒロコ」と呼ばれ[5]、人気モデルとなる。カルダンは松本のランウェイについて「重力を感じさせず、まるで天女のように歩く[3]」と絶賛し、シーズンのメインの服を纏わせ、コスモコールブームにも貢献[5]

1961年、カルダンのブティックの支配人であったフランス人男性と結婚したときには、カルダンからブライダルドレスが贈られた[5][1]。1963年からパリに定住[1]。1967年、出産をきっかけにモデルを引退[1][2]。1970年には女優として映画『家庭』(フランソワ・トリュフォー監督)に出演した。

1975年からファッション雑誌『ヴォーグ』で編集・広報および広告入稿の日本担当責任者をつとめた[1]。1995年に退社し、ファッションアドバイザーとして活動[1]。1996年、神戸ハーバーサーカス(当時)に自身のブティック「ル・ショワ・ド・ヒロコ」を開店させた[1][2]

2003年、パリで死去した。67歳没[2]

脚注

参考文献




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