東大安田講堂事件
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東大安田講堂事件(とうだいやすだこうどうじけん)は、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が約8500人もの機動隊を導入して1969年(昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦、東大安田講堂占拠事件ともいう。
注釈
- ^ 渡辺眸によると、構内にいるのは、3割くらいが東大生で、あとは他校の学生や活動家だったという[1]。
- ^ 10月12日に法学部がストに入ったことで、全学部が無期限ストに突入した。これらのスト決定に際しては民青系学生も含めた長時間の学生大会での議論を経ており、その過程ではどちらも絶対多数を取れずに議論・採決を繰り返す例も見られた[3]。
- ^ 日大闘争では9月30日の団交で大学側の古田会頭は自己批判書に署名捺印し学生側の要求を受け入れたが、佐藤は翌10月1日に「団交は認められない。政治的問題として処理する」と発言。日大側は10月3日に団交での確認書を破棄した。
- ^ 島によると、安田講堂の正面は「あらゆる方向からの死角」であり、そこにしっかりした攻城機械を組み立てて押し寄せていれば、正面玄関のバリケードは簡単に解除できたはずだという[7]。
- ^ 島泰三によると、この行為を行ったのは「日本共産党系の防衛部隊」であるとされる。
出典
- ^ 土井大輔 (2018年7月13日). “安田講堂の陥落は「泣きじゃくって撮った」内側からみた東大全共闘”. DANRO. 朝日新聞社. 2020年9月12日閲覧。
- ^ a b 島泰三 2005, pp. 25–26.
- ^ 島泰三 2005, pp. 103–104.
- ^ 佐々淳行 1996, p. 222.
- ^ 島泰三 2005, p. 227.
- ^ 島泰三 2005, pp. 231, 234.
- ^ 島泰三 2005, pp. 247, 250.
- ^ 島泰三 2005, pp. 241–242.
- ^ “仙谷官房長官 「東大紛争で弁当運びしていた」と暴露される”. NEWSポストセブン (2010年10月26日). 2017年6月8日閲覧。
- ^ 島泰三 2005, pp. 171–174.
- ^ 「全弁護人を拘束 開廷五分で警官導入」『朝日新聞 夕刊』、1969年7月1日、3版、11面。
- ^ 東大事件 十年裁判にケリ 最高裁十一被告の上告棄却『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月1日朝刊、13版、23面
- ^ “東大落城 安田講堂36時間の攻防戦”. テレビドラマデータベース. 2020年9月30日閲覧。
- ^ “NHKアーカイブス特集 「安田講堂落城~“あの日”から40年 学生たちのその後~」”. NHKクロニクル. 2020年9月30日閲覧。
- ^ “NHKアーカイブス(番組) これまでの放送”. NHKアーカイブス. 2020年9月30日閲覧。
- ^ “ドラマ「宿命1969−2010~ワンス・アポン・ア・タイム・イン・東京~」のあらすじ一覧”. ザテレビジョン. 角川書店. 2020年9月30日閲覧。
- ^ “「東大安田講堂事件 あのとき学生は何と闘ったのか」 - アナザーストーリーズ 運命の分岐点 - NHK”. 2022年9月9日閲覧。
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