李朝の創建
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景瑞2年(1009年)、臥朝皇帝は崩御した。皇太子の黎龍乍は10歳と幼く、臥朝皇帝の2人の弟の定藩王黎龍鏦(ベトナム語版)と行軍王黎龍鍉(ベトナム語版)は皇位をめぐって争った。時に左親衛殿前指揮使に任じられていた李公蘊と右殿前指揮使の阮低(ベトナム語版)はそれぞれ500の兵を率い、護衛の名目で宮中に侵入する。その折、祗候の陶甘沐(中国語版)は李公蘊に対して即位を勧めた。これを「陰謀」とみなした李公蘊は2人を逮捕するものの、最終的にその意を受ける。陶甘沐と万行の策略の元で、李公蘊は兵を率いて黎龍鏦と黎龍鍉を討って皇位を奪った。そして黎姓から李姓に復し、新たに李朝を興した。翌年には元号を順天とし、父に顕慶王と追号し、生母を明徳太后(中国語版)とした。
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