齋藤内閣
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齋藤内閣(さいとうないかく)は、枢密顧問官、退役海軍大将の斎藤実が第30代内閣総理大臣に任命され、1932年(昭和7年)5月26日から1934年(昭和9年)7月8日まで続いた日本の内閣。
- ^ 濱口内閣の後継の第2次若槻内閣。また、憲政常道の確立以前ではあるが、原内閣の後継の高橋内閣。
- ^ 倉富勇三郎枢密院議長、牧野伸顕内大臣、近衛文麿貴族院副議長、若槻礼次郎元首相、清浦奎吾元首相、山本権兵衛元首相
- ^ 上原勇作、東郷平八郎。この当時生存していた元帥はこの二人と閑院宮載仁親王のみ。
- ^ 西園寺はこれを一時的な措置とし、いずれ政党政治に戻す事を企図していたとされるが、時局が進むにつれそれが実現することはなかった。
- ^ 鈴木に対しては、犬養内閣の内務大臣であったことから「治安の責任者たる内務大臣が首相暗殺によって引責どころか首相就任というのはどうなのか」という問題や、昭和天皇が西園寺に述べた「ファッショに近い者は不可」という意向に国本社理事で平沼と近い鈴木が抵触するという問題もあった。多田井喜生「決断した男 木戸幸一の昭和」P97~98、文藝春秋、2000年。
- ^ 1934年(昭和9年)7月3日、貴族院勅選議員勅任。
- ^ 帝人事件関与疑惑で引責辞任。
- ^ 足利尊氏論の批判により辞任。
- ^ 病気療養のため辞任。
- ^ 1933年(昭和8年)12月5日、貴族院勅選議員勅任。
- ^ 内閣書記官長に就任するため。
- ^ 優生学の研究書。
- ^ 『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月19日
- ^ 『東京日日新聞』1932年(昭和7年)5月20日
- ^ 加藤陽子『満州事変から日中戦争まで』岩波新書2007年 137頁
- ^ 加藤陽子『満州事変から日中戦争まで』岩波新書2007年 133-135頁、161-162頁
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和7年5月26日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和7年7月6日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和8年9月14日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年1月23日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和8年1月9日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年3月3日
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和9年2月9日
- ^ a b c d 『官報』第1859号「叙任及辞令」、昭和8年3月13日
- ^ a b 『官報』第1625号「叙任及辞令」、昭和7年6月2日
- ^ a b 『官報』第1891号「叙任及辞令」、昭和8年4月22日
- ^ a b 『官報』第1686号「叙任及辞令」、昭和7年8月12日
- ^ 『官報』第1941号「叙任及辞令」昭和8年6月22日。
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」、昭和8年6月24日
- ^ 『官報』第2094号「彙報 官庁事項 官吏卒去」昭和8年12月22日。
- ^ 『官報』第2095号「叙任及辞令」、昭和8年12月23日
[続きの解説]
「齋藤内閣」の続きの解説一覧
- 1 齋藤内閣とは
- 2 齋藤内閣の概要
- 3 閣僚の顔ぶれ・人事
- 4 勢力早見表
固有名詞の分類
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