折田彦市
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折田 彦市(おりた ひこいち、嘉永2年1月4日(1849年1月27日)[注釈 1] - 1920年(大正9年)1月26日)は、明治時代に活動した日本の教育者・文部官僚。旧制第三高等学校(三高)の初代校長として知られている。その前身校も含めれば約30年間にわたって三高の校長を務め、同校の「自由の学風」を築いたとされる。
注釈
- ^ この日付は折田自筆の「折田家系図」を根拠としている[2]。板倉によれば嘉永3年(1850年)7月4日生まれと「誤って」記載した資料があるという[3]。『議会制度七十年史』は嘉永3年(1850年)7月生まれ、『京大百年史』も折田の生年を1850年としている[4]。
- ^ のちに第三高等学校教授となる平田元吉の父[7]。
- ^ 折田の退任時、折田と交遊のあった同郷の大浦兼武は、折田が当然に京都大学の総長になるべきであったという文章を読売新聞に寄せている[51]。
- ^ 板倉 (1993) は、もともと別個に発表された文章をまとめた本である。折田が親族の借金の保証人となり結果的に不始末となった出来事がありこれを恥じたためではないかとの推測も示しているが[53]、同書内でこれを否定する見方も示している。
- ^ 「生徒取締上ノ件会議決」(明治22年9月14日付)中の「生徒称呼ノ事」。生徒が教員を呼ぶときは「先生」「さん」付け、教員が生徒を呼ぶときは原則呼び捨てではなく「さん」付け、などと細かい規定が行われた[64]。
- ^ 京都大学の「自由の学風」については木下広次の役割も評価されているが[67]、三高卒業生で折田を顕彰する板倉創造の文章では、京都帝国大学が当初三高構内に間借りする形で発足したこと、木下が一高校長時代に「籠城主義」を唱えたことなどを挙げ、折田の役割を大きく描いている[68]。
出典
- ^ General catalogue of Princeton University 1746-1906. Princeton University, 1908. p. 247.
- ^ 板倉 (1993)、p.3;厳 (2008)、p.18
- ^ 板倉 (1993)、p.185
- ^ 『京大百年史 総説編』、p.210。
- ^ 板倉 (1993)、口絵
- ^ a b 厳 (2008)、p.18。
- ^ a b 板倉「折田先生の人間像」p.125
- ^ 『神陵史』、p.539。
- ^ 厳 (2008)、p.73。
- ^ 厳、pp.18-19。
- ^ a b 板倉 (1993)、p.236。
- ^ 板倉「折田先生の人間像」pp.128-129
- ^ 板倉 (1993)、pp.234-235。
- ^ 厳 (2008)、pp.20-21。
- ^ 厳 (2008)、p.22。
- ^ 板倉 (1993)、p.235。原出典:石附実『近代日本の海外留学史』
- ^ 厳 (2008)、pp.24-25。
- ^ 厳 (2008)、pp.26-27。
- ^ 厳 (2008)、pp.27-28。
- ^ 厳 (2008)、p.31。
- ^ 厳 (2008)、pp.32-34。
- ^ 厳 (2008)、pp.35-36。
- ^ 厳 (2008)、p.40
- ^ 厳 (2008)、p.39。
- ^ 厳 (2008)、pp.47-48。
- ^ 厳 (2008)、pp.70-71。
- ^ 板倉 (1993)、pp.6-7
- ^ a b 板倉「折田先生の人間像」p.133
- ^ 厳 (2008)、p.48。
- ^ 板倉「折田先生の人間像」p.134
- ^ 板倉 (1993)、pp.123,258。
- ^ 板倉 (1993)、p.6,258。
- ^ 板倉 (1993)、p.125。
- ^ 板倉 (1993)、pp.126-127。
- ^ 板倉 (1993)、p.200。
- ^ 板倉 (1993)、pp.6,127-128。
- ^ 厳 (2008)、pp.88-89。
- ^ 板倉 (1993)、p.140。
- ^ a b 板倉 (1993)、p.21。
- ^ 板倉 (1993)、pp.141。
- ^ 『京大百年史 総説編』、p.40。校長の辞令が出たのは4月15日である。
- ^ a b c d 『神陵史』、p.534。
- ^ 厳 (2008)、p.153。引用は1880年(明治13年)の福岡孝弟文部卿宛「年報」。
- ^ 『神陵史』、p.190;『京大百年史』、p.63;厳 (2008)、p.240。
- ^ a b 『神陵史』、p.210。
- ^ 板倉「折田先生の人間像」p.138
- ^ 折田彦市談「回頭三十年の感」、『読売新聞』明治43年(1910年)12月1日「折田校長勇退記念」。板倉 (1993)、pp.150-152より重引用。
- ^ 『京大百年史 総説編』、p.112。
- ^ 『京大百年史 総説編』、p.113。
- ^ 『京大百年史 総説編』、p.117。
- ^ 板倉「折田先生の人間像」pp.139-140
- ^ 板倉 (1993) p.143。
- ^ 板倉 (1993) pp.17-18。
- ^ 『神陵史』、p.543。
- ^ a b c d e f 板倉 (1993)、p.181。
- ^ 『官報』第8257号、明治43年12月28日。
- ^ 『官報』第8431号、明治44年7月29日。
- ^ a b 板倉 (1993)、p.18。
- ^ 『官報』第1103号、大正5年4月8日。
- ^ a b 板倉「折田先生の人間像」p.140
- ^ 板倉 (1993)、p.20より重引用。原出典:「三高の自由 先生と生徒の没交渉及嶽水会」『嶽水会雑誌』55号(大正2年5月)。
- ^ 板倉「折田先生の人間像」p.125。近代デジタルライブラリーで『神陵小史』(1935年)[1] およびその改訂再版(1939年)[2]が公開されている
- ^ 『京大百年史 総説編』、p.84。
- ^ 『京大百年史 総説編』、pp.83-84。
- ^ 『神陵史』、p.649。
- ^ 板倉 (1993)、p.144。
- ^ 例えば、“百周年時計台記念館 歴史展示室 企画展「創立期の京都大学 −初代総長木下広次を中心に−」を開催(5月31日付)”. 京都大学 (2004年5月31日). 2016年4月18日閲覧。
- ^ 板倉「折田先生の人間像」pp.140-141
- ^ 板倉 (1993) p.8
- ^ 厳、pp.39-40, 55-57。
- ^ 厳 (2008) p.48
- ^ 板倉 (1993) pp.34-35。
- ^ 板倉「折田先生の人間像」pp.135-138
- ^ 『京大百年史 総説編』p.84。
- ^ 『神陵史』p.604。
- ^ a b “「変身」の京大・折田先生、存命中の肖像 藤島武二作”. 京都新聞. (2013年7月27日) 2013年7月27日閲覧。
- ^ 板倉 (1993) p.18。原出典:『嶽水会雑誌』52号。
- ^ a b 板倉「折田先生の人間像」p.126
- ^ 板倉 (1993)、p.221
- ^ 『東京日日新聞』第2940号、1881年9月27日、1面。
- ^ 『官報』第907号、1886年7月10日、105頁。
- ^ 『官報』第2597号、1892年3月1日、2頁。
- ^ 『官報』第2855号、1893年1月7日、33頁。
- ^ 『官報』第4051号、1896年12月28日、434頁。
- ^ 『官報』第4146号、1897年5月1日、4頁。
- ^ 『官報』第4499号、1898年6月30日、405頁。
- ^ 『官報』第5696号、1902年7月1日、5頁。
- ^ 『官報』第7337号、1907年12月11日、212頁。
- ^ 『官報』第8105号、1910年6月29日、651頁。
- ^ 『官報』第8281号、1911年2月1日、8頁。
- ^ 『官報』第205号附録、1913年4月9日、3頁。
- ^ 『官報』第1311号附録、1916年12月14日、1頁。
- ^ 『官報』第1218号、1916年8月21日、453頁。
- ^ 『官報』第2242号、1920年1月27日、489頁。
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