愛宕神社 (笠間市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/24 07:10 UTC 版)
愛宕神社(あたごじんじゃ)は、茨城県笠間市泉の愛宕山に鎮座する神社。元は愛宕権現で、俗に「泉の愛宕」と呼ばれた。平田篤胤の「仙境異聞」では「愛宕宮」として描かれた。旧社格は村社[1]。日本三大火防神社(日本火防三山)の一社を称する。
- ^ 昭和16年(1942年)発刊の茨城県神社写真帳に、村社として記載されている。国文学研究資料館所蔵社寺明細帳データベースにも村社とある。
- ^ 発見!! いばらき、悪態祭り。「イヅナ」という社名と天狗にその歴史をうかがい知ることができる」とある。
- ^ 広報かさま「笠間の歴史探訪」(平成23年12月号)、大日本地名辞書、岩間便覧等に記されている。
- ^ 茨城県、吾国・愛宕県立自然公園、吾国愛宕県立自然公園等。
- ^ 笠間観光協会、あたご山桜まつり。
- ^ 足尾神社は、飯綱神社と同じく、式内夷針神社の論社のうちの一社である。式内夷針神社の項を参照。
- ^ 吾国山の山頂には田上神社が、難台山の山腹には羽梨山神社の旧址がある。
- ^ a b c d e 茨城県教育委員会、祭り・行事調査事業。
- ^ a b 境内案内板。「此の石段を登り詰めた処に愛宕神社の奥社飯綱神社即ち夷針神社鎮座し、其の御祭神は手力雄命」とある。
- ^ 石岡市観光協会、北向観音(長楽寺)。
- ^ a b 笠間市「笠間の歴史探訪 3. 天狗の棲む愛宕山」。
- ^ つくば周辺伝統行事カレンダー。
- ^ a b 東スポWeb。
- ^ 平成20年(2008年)の茨城県の祭り・行事調査事業の調査報告では「近年」とあるだけで、正確な再開の時期等は取材されていない。2012年の黒木貴啓(ねとらぼ)の記事では、昭和20年(1945年)頃に途絶え、10年前に蘇ったと記されている。ここからおおむね2000年代初頭と考えられる。なお、実際には氏子の神事としては継続していた。
- ^ 黒木貴啓。
- ^ 秋田長季は寛政9年(1797年)に家督を継ぎ、享和3年(1803年)に隠居した。当時の秋田氏が常陸宍戸藩主であった事実もない。一方、寛永20年(1643年)の常陸宍戸藩主は秋田俊季である。陸奥三春藩に移封となる二年前にあたるため、人名の誤記とみなせば、この伝承には整合性がある。
- ^ a b c d e 木塚久仁子「土屋家との深いゆかり-「常州茨城郡泉邑愛宕山絵図」-」。
- ^ 延喜式考異。
- ^ 大日本地名辞書は、泉説を妥当ではなく、井白説を明瞭に欠くと退けながら、土浦市藤沢が古代郷域の空白地帯となっているという不完全な理由により、ここに夷針郷を消極的に比定する独自説を立てている。夷針神社の比定社には言及していない。
- ^ 常陸国風土記の新治郡の条に、美麻貴天皇の御代、新治国造の祖である比奈良珠(ひならす)命が東夷を平定するため遣わされ、この地で新井を掘ったことから、新井を治(は)るに因んで郡名としたという伝承が記されている。なお、新治郡衙跡は筑西市古郡に比定されており、国の史跡である。古代の新治郡は、近世の新治郡とは郡域がまったく異なっている。
- ^ 石岡市、石岡市の歴史と記憶、護身地蔵。
- 1 愛宕神社 (笠間市)とは
- 2 愛宕神社 (笠間市)の概要
- 3 愛宕山
- 4 式内夷針神社について
- 5 脚注
- 愛宕神社 (笠間市)のページへのリンク