得永祥男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 06:19 UTC 版)
得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2月1日)は、日本の高校野球指導者。佐世保工業高校・波佐見高校野球部を率いて春夏合わせて6回の甲子園出場を果たした[1]。
注釈
- ^ 同大学では内野手として活躍した。
- ^ 1978年までは記念大会を除き、長崎県代表になった上で西九州大会で優勝しなければ甲子園に出場することはできなかった。
- ^ 得永が赴任した1965年時点で甲子園出場経験のある長崎県の高校は、長崎中・長崎商・長崎東・長崎西・長崎南山・海星といずれも長崎市の学校である。
- ^ この年の熊本工業高校は決勝まで勝ち上がり松山商業高校と対戦、「奇跡のバックホーム」で知られる熱戦を演じた。
- ^ 門司工業高校の不祥事発覚による代替出場。
- ^ 得永は香田が佐世保工業高校1年時の1982年に波佐見高校へ転出した。なお香田はこの年の夏の甲子園に2年生エースとして出場し、1勝を挙げた。
出典
- ^ a b c d e 「早すぎる悲報、惜しむ声 熱血漢の名将・得永祥男さん死去」『朝日新聞』2003年2月2日付西部版朝刊、長崎面。
- ^ 人物・人材情報リスト 2006, p. 240.
- ^ a b c “闘将 得永祥男先生 壮絶の死を悼む”. 長崎県立長崎北高等学校ラグビー部. 2016年8月29日閲覧。
- ^ a b 70年史 1989, p. 813.
- ^ 「全国制覇への道(二つのボール 野球とサッカー:下)」『朝日新聞』2002年7月13日西部版朝刊長崎面。
- ^ 白球五十年 1998, p. 162.
- ^ a b c 「初戦突破 波佐見・得永祥男部長(はま風) 第78回全国高校野球」『朝日新聞』1996年8月14日付朝刊、15面。
- ^ a b 白球五十年 1998, p. 314-315.
- ^ 「「炎の軍団」甲子園へ高まる闘志(波佐見)」『朝日新聞』2001年8月4日付西部版朝刊、長崎面。
- ^ a b c 「波佐見 故・得永祥男氏(監督力:4)」『朝日新聞』2003年7月12日付西部版朝刊、長崎面。
- ^ 「朝日・ncc球育賞に長崎日大と波佐見の2監督」『朝日新聞』2002年7月14日付西部版朝刊、長崎面。
- ^ “長崎県高等学校野球連盟 感謝状及び表彰者”. 長崎県高等学校野球連盟. 2016年8月29日閲覧。
- ^ 「(あの夏:2)得永祥男と健 父の理念継ぎ選手指導」『朝日新聞』2008年6月30日付西部版朝刊、長崎面。
- ^ a b “夢舞台へ 波佐見’11センバツ<下>期待 地域と共に歩き続けて”. 西日本新聞. 2016年8月29日閲覧。
[続きの解説]
- 得永祥男のページへのリンク