山村辰雄とは? わかりやすく解説

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山村辰雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/01 03:49 UTC 版)

山村 辰雄(やまむら たつお、1903年 - 1974年12月2日)は広島県呉市出身の日本ヤクザ実業家。山村組組長。初代共政会会長。広島抗争の中心人物の一人。映画「仁義なき戦い」シリーズでは「山守義雄」として描かれている。


注釈

  1. ^ 戦後呉に戻ったという史料も存在する[1]
  2. ^ 戦後広島ガスの利権を実弟に譲り、呉市内の興行界に進出。多数の映画館興行場を経営する。直属の組織を持たないために顔役と称されるが実際は長きにわたり呉に君臨した「ヤクザではないが実質はヤクザの親分」であった。山村組は実質海生組内山村組であり、小原馨組長の小原組は実質海生組内小原組である[2]
  3. ^ 東洋一の兵器廠と言われた呉には、膨大な旧軍の遺産が残されていた。スクラップは20万トン、払い下げが行われた数年間は全国の業者が集まった[3]
  4. ^ 山村組を旗揚げ時に、山村組の顧問格だった谷岡千代松に「哲ッちゃん、あんた若者頭になってやってくれんか」と頼まれ、成行きのまま引き受けたという。佐々木の配下で坂根鉄郎が土岡博暗殺を実行した。次第に佐々木は山村組の中で力を付けていく[4]
  5. ^ 佐々木に反発した新居勝巳とその舎弟今田泰麿の資金源は覚せい剤であったが、佐々木は彼らを排除するため「ヒロポン禁止」の命令を出す。美能幸三の舎弟・山手辰巳を射殺したとして、佐々木から破門された今田は旧土岡組の波谷守之と手を組んで佐々木らを暗殺するべく呉中を探し回った。佐々木の子分・吉兼悟を拉致し、瀬戸内海の無人島に連れ出し、リンチを加えた後殺害したがやがて逮捕される[4]
  6. ^ 佐々木一派は新居勝巳殺害、さらに佐々木の勢力を恐れて山村が幹部に加えた野間範男を殺害し、反佐々木派を一掃する。さらには親分の山村をも駆逐しようとする。佐々木が山村を追い落とす決定的な要因となったのは、佐々木が短期刑で刑務所に入所中、佐々木の愛人に手を出したことにあると言われている。佐々木は、広島の岡組、打越組、呉の小原組、佐々木組の間で兄-舎弟の一斉盃を執り行い山村抜きの序列を定めることで山村を引退に追い込んだ[5]
  7. ^ 佐々木の天下は半年と続かなかった、1954年(昭和29年)に小原馨が散髪屋で殺害されて以来、組長不在だった小原組の跡目問題に干渉、これに小原組幹部・門広が反発すると佐々木一派は門を邪魔者として呉市広の新開町で襲撃する。奇跡的に一命を取り留めた門はその報復として、佐々木殺害を決意する。1959年(昭和34年)10月7日呉市中通りのビリヤード店から出てきた佐々木を門の配下・三宅譲と平本義幸がコルト45口径を7発発射し、殺害した[6]
  8. ^ 事件後、門が海生経営の興業クラブへ行くと「ようやってくれた、心配かけたのう、すまんのう」と、山村は門の手を握り感謝している。海生に「このたびの事件についてどう思うちょる?」と聞かれた山村は「ありがたいことじゃと思うちょります。わしは一生門らのめんどうを見ます」と答えている。当時、山村は広島に新しく出来る競艇場を買う予定だったらしく「ほいじゃけんのう、その売り上げの何割かを、お前のために貯金しとくけん」と言っていた。事実、門らの裁判費用を海生と山村で負担している[7]
  9. ^ 頂上作戦により山口組田岡組長宅爆破事件で逮捕・起訴されるも保釈を勝ち得た山村だったが、今度は山村の経営する会社に税務当局の手が伸び、七千万円の脱税が指摘される。経済基盤に対する圧力には逆らえず、山村は企業を維持するために引退を表明する[8]
  10. ^ 田岡邸爆破事件の弁護を頼んだ藤堂弁護士に「君が本当にヤクザをやめて堅気になるなら引き受けてもよい」と言われ「引退しますけん」と答えている。藤堂は「もうひとつ条件がある、知り合いの医者が、身体障害者の医療施設を経営する財団法人を作ろうと金を集めているがなかなか出してくれる者がおらん。君が一千万円出してやれ、そうしたら弁護人になる」藤堂弁護士に言われ、山村は二つの条件を実行した。この医療施設は今でも立派に運営されている。裁判の過程で山村自身の病気も発覚している。今で言うアルツハイマー病である。向江弁護士の著書「無罪の記録」によると昭和48年の裁判記録にある妻・邦香の証言よれば、記憶力に障害があり、妻の顔も判らないとある。さらなる証言には金の価値もわからなかったという[9]

出典

  1. ^ 鎮魂歌 2003, p. 127.
  2. ^ 主役たち 1998, p. 128.
  3. ^ 鎮魂歌 2003, p. 158.
  4. ^ a b 主役たち 1998, p. 165.
  5. ^ 主役たち 1998, p. 166.
  6. ^ 主役たち 1998, p. 167.
  7. ^ 主役たち 1998, p. 59.
  8. ^ 鎮魂歌 2003, p. 165.
  9. ^ 鎮魂歌 2003, pp. 165–166.


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