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大さん橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/03/08 23:50 UTC 版)
大桟橋(おおさんばし、大さん橋)は、神奈川県横浜市にある、横浜港大桟橋埠頭及び横浜港大桟橋橋国際客船ターミナルの通称。
横浜港における国内及び外国航路の客船の主要発着埠頭である。。横浜港の象徴的存在であると同時に、横浜市や横浜港における主要観光地としても知られている。
日本郵船のクルーズ客船である飛鳥IIは横浜港が船籍港であり大桟橋から主に発着している。また横浜港周遊船であるロイヤルウイングの発着埠頭でもあり、離島航路として伊豆諸島への国内旅客航路をもつ。 (通称「くじらのせなか」と呼ばれている(後述))。
目次 |
歴史と趨勢
横浜開港から大桟橋建設まで
横浜港は1859年の開港以来急増する貨物量に対し、イギリス波止場(のちの「象の鼻」波止場と呼ばれる)やフランス波止場と呼ばれる艀荷役に必要な小規模の船溜まりこそあったものの、直接岸壁に接岸し荷役を行える施設がなかった。増加一途の貨物量は艀荷役だけでは対応しきれなくなり、接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性が高まっていった。艀荷役は、慢性的な埠頭不足により、近年のコンテナ輸送への質的転換迄、息長くことになるのだが、まずは近代国家に相応しい埠頭を建設することが当時の早急の課題とされた。明治維新直後から井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事からの要請等により、1870年に工部省お雇い外国人の英国人技師リチャード・ヘンリー・プラントンによる横浜築港桟橋計画の提案や、1874年には内務省お雇い外国人オランダ人技師ファン ドールンにより築港計画提案に至り、大隈重信大蔵卿からも接岸荷役体制に向けた築港計画が上申される等、多くの要望があったが実現できなかった。また当時既に東京港建設の機運があり、品川沖に築港する案もあったが、横浜からの反対や財政難により、これも実現しなかった。
横浜開港から27年が経過した1886年になり、機運はいよいよ高まり、内務省からオランダ人技師デ・リーケへの設計要請や、神奈川県より英国陸軍大佐であり技官であったヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請となった。しかし両者の設計案は時の明治政府内でも議論が拮抗し、さらに政府内ではその上位案件として、東京港建設と横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が深まっていた。時に外務大臣になっていた大隈重信は横浜港建設を強く進言し、さらにパーマーが英国タイムス記者を兼職し同紙上で日本を好意的に報道した実績や、不平等条約改正に向けた日英同盟への動きと相交じり、正式にパーマーの横浜港築港案が採択された。さらに下関砲撃事件での賠償のうち、米国への支払った賠償金が、1883年にグラント大統領及び米国議会承認より日本への償還が承認されており、償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的メドも整った。
この時期に横浜築港が正式決定されたことが、後年の横浜港や横浜市の発展に繋がる決定的瞬間であったともいえる。
こうして1889年に横浜築港第一期工事がはじまり、接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。しかし基礎に必要な螺旋杭は当時の日本の精錬所からは供給できなかったため、大量の螺旋杭を輸入して建築された。こうして1894年に現在の大桟橋となる「鉄桟橋」が完成した。「鉄桟橋」は陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は457メートル、幅19.2メートルの当時の技術で最先端を行く近代埠頭であった。
「鉄桟橋」の完成をみたものの、横浜港の貨物取扱量は近代日本の急成長と共に急増の一途をたどり、外航路客船はともかく、依然として艀荷役に依存せざる得ない状況であった。これは貨物滞留や物流遅延を招き、横浜経済財界人からも更なる横浜港拡充の要請が強まっていった。これが横浜築港第二期工事と繋がり、新港埠頭建設へと繋がっていった。横浜築港第二期工事では「鉄桟橋」も拡張され幅42.8メートルとなり、2つの木造2層型上屋が新設され、低層部は貨物倉庫、上層部は旅客施設や旅具検査場、並びに電信電話設備や事務室が併設された。1913年に第二期工事は完成した。
こうして「鉄桟橋」は外国航路の貨客船における日本の主要拠点となり、当時の日本郵船、東洋汽船、大阪商船など日本海運業界の表玄関として利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍した。欧州航路では英国P&O、北ドイツ・ロイド、フランス郵船、北米航路では米国太平洋郵船、カナダ太平洋汽船、アメリカンプレジデントライン等が定期航路を敷くようになった。新港埠頭が完成すると、外国航路の一部を移譲した。新港埠頭4号岸壁は日本郵船の北米航路が使用し。9号岸壁は欧州航路が接岸する等「鉄桟橋」の負荷を緩和させた。「鉄桟橋」は外国籍船と日本郵船のシアトル航路が発着するようになった。、新港埠頭4号岸壁からは、太平洋戦争後もシアトル航路に復帰した日本郵船の氷川丸が発着を続けた。しかし氷川丸は1960年に最終航海を終了させるともない新港埠頭の旅客業務も終了した。
「鉄桟橋」(のちの大桟橋)を含む横浜港からは生糸や茶が主要な輸出品であり、当時の日本に大きな外貨獲得機会をもたらした。生糸や茶貿易で大きく成長した横浜商社も多かった。原三渓の歴史や、現在も観光名所である三渓園やシルクセンターに往事を偲ぶことができる。輸入品としては大豆、小麦、綿花、石炭等があり、なにより輸入品が贅沢と羨望の的であった時代に日本に与えた歴史的役割は大きかった。
関東大震災による倒壊と復興
1923年9月23日の関東大震災により大桟橋は崩壊した。大桟橋には当時3隻の客船が接岸しており、カナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・オーストラリアの艦長が当時の救出活動や罹災状況につき詳細な記録を残している。大桟橋の復旧は1923年10月からはじまり、1925年9月には完成した。1928年迄に2棟の上屋が建設され、チャータード銀行、香港上海銀行支店が開設され、帝国ホテル直営の桟橋レストランが開業した。
この頃から海運競争力維持や国威高揚も兼ねて日本船籍の新鋭客船新造が相次ぎ、外国新造大型船も続々と入港するようになり、大桟橋は黄金期を迎え多忙な桟橋となった。チャーリー・チャップリンの来日も大桟橋から始まるなど、大桟橋を場とした国際旅客の乗下船による文化交流が最も盛んな時代であったといえる。いっぽうでは、昭和恐慌により疲弊した農村部からの南米移民が急増した時代でもあり、大桟橋は南米移民の日本出発の最終拠点として周辺の移民宿と共に歴史に大きな軌跡を残していくことになる。
太平洋戦争と連合国接収、接収解除
太平洋戦争終結により大桟橋は連合国に接収される。降伏調印の為に米国戦艦ミズーリ号に向かった重光外相も大桟橋から小型船に乗船している。連合国も当初GHQを置いたのも大桟橋に程近いホテルニューグランドであり、大桟橋が時代の節目で日本の歴史に深くかかわることが横浜の開港以来の宿命を如実に表わしている。大桟橋は連合国軍に接収されたが、1952年に接収解除となり、北米定期航路にはアメリカンプレジデントラインの「プレジデント・ウイルソン」や「プレジデント・クリーブランド」、欧州航路にはP&Oの「チューサン」やオリエントラインの「オロンセイ」、キュナードの「カロニア」などが就航し、日本郵船の「氷川丸」がシアトル航路に復活するなど、第二の往事を迎えた。また移民船として「ブラジル丸」、「あるぜんちな丸」等が就航し、1960年代初頭までの第二の南米移民ブームを支えた。またのちに、ナホトカ定期航路も開設され、その低価格による欧州渡航が人気を博した。この頃の氷川丸でフルブライト留学生として渡米した人々も少なくなく、また宝塚歌劇団の渡米にも利用された。
東京オリンピックから1970年代初頭
1964年の東京オリンピックに合わせて三度目の大改修が行われた。国際船客ターミナルとしての高機能化が図られ、2階建国際船客ターミナルが完成した。1階部分に税関・出入国管理・検疫施設を構え、2階部分に渡航旅客や歓送迎者用待合所や土産物店向け設備が整えられた。自走式渡船橋により接岸船舶の高度差や位置に関わらずターミナルからの乗下船が容易になるなど当時としては最高位の機能を備えていた。1970年には貨客船寄港数が過去最高となったが、海外渡航の主力は空路になっており、ボーイング747就航による航空輸送力の増強や、海路旅行者の激減、1970年代初頭の石油危機による原油価格高騰により外航貨客船航路は急速に衰退した。1973年には移民船「あるぜんちんな丸」の最終航海によって一世紀に渡る海外移民航路が終焉した。いっぽう1975年3月にはクイーン・エリザベス2が初入港し、空前の52万人の見物客で溢れ返った。以降、大桟橋に寄港する客船は概ね全てがクルーズ船となり、「ロイヤルバイキングスター」、「キャンベラ」、「ロッテルダム」が主に横浜を寄港地とするようになった。特筆すべきは旧ソ連極東船舶公社がナホトカ定期航路を持続運用し、1980年代全体をとおして横浜港を国際旅客定期航路保有の港としての威容を保った。
1980年代から現在
1980年代から斜陽化する海運旅客事業を憂う声がある一方、クルーズ産業の興隆という新しい客船の在り方が脚光を浴びはじめ、日本の経済成長に伴い、日本市場のクルーズ人口も拡大してきた。船舶の巨大化と、大桟橋そのものが設備更新時期を迎え、1989年から大桟橋改修事業が着手され2002年に新たな大桟橋国際船客ターミナルが完成した。設計は国際コンペ660件の応募からアレハンドロ・ザエラ・ポロ氏 とファッシド・ムサヴィ氏の設計が選定された。構造は地下1階地上2階建の鉄筋コンクリート造となっており全床面積は44,000平方メートルとなっている。1階は駐車場となっており約400台の普通車に対応でき、2階は出入国ロビーとして、インフォメーション、発券所、船客待合場所、店舗、レストランがあり、同階でCIQ機能を備え、税関、出入国管理、検疫施設 がある。また 第1と第2ホールを備え多目的に利用できるスペースを確保している。A、Bバースは延長450m、水深12mを備え、C、Dバースは延長450m、水深10~11mとなっており3万トンクラスの客船は4隻、より大きな客船は同時2隻着岸が可能となった。バリアフリー型渡船橋4基装備により今後のクルーズ船増加に対応できる埠頭として整備された。建物2Fや屋上床はブラジル産イペを使用したウッドデッキになっており、さらに天然芝の緑地を設けてある。接岸船舶からの眺望や周辺空間の眺望を遮らないことを考慮し、比較的低層構造となっている。2000年代から横浜市からも積極的な客船誘致を行い、年間客船入港数は全国港湾の中で一位である。大桟橋の稼働能力を活かすため、より一層のクルーズ客船寄港誘致をすすめ、港湾機能の維持拡大や、港勢拡大を行い、乗船客及び観光集客増に結び付け、地域経済の発展に寄与させることが課題となっている。
国際客船ターミナル機能
大桟橋国際客船ターミナルは横浜港で大型客船が複数同時着岸できる主要旅客ターミナルとして建設された。クイーン・エリザベス2クラスの客船が2隻同時着岸できる。また3万トン以下クラスの客船であれば4隻同時着岸が可能である。建物は、内部に柱・梁がなく、また階段が無くスロープやエレベータで昇り降りする非常に先取的構造となっている。また、屋上はウッドデッキ及び芝生広場となっており、24時間自由に出入りできる、公園のような場所となっている。
大桟橋は海路からの出入国の場であり、横浜港や横浜税関を経由する旅客の出入国の場である。現在でも外国航路にでるクルーズ客船に乗下船する際は、ここで通関や出入国手続きや手荷物検査を行う。
大桟橋は国内離島航路もあり、伊豆諸島に向かう東海汽船の定期航路の発着場としても広く利用されている。
大さん橋ホール
大さん橋ホールは、大さん橋の2Fの奥に位置する多目的ホールである。相鉄企業・横浜港振興協会・相鉄エージェンシー共同事業体が管理・運営している。床面・壁面はウッドデッキ仕上げ、正面奥は強化ガラスウォールであり、横浜ベイブリッジ方面を望むことが出来る。広さは約2,000m2であり、天井高は6.5〜7.5mある。最大で1,200名の収容が可能であり、屋上フリースペースから連続した空間としての利用も可能である。
新しい愛称「くじらのせなか」
大桟橋屋上のフリースペースは、大型客船の入出港時等は多くの見物客で賑わい、今や横浜の一大観光スポットとなっているが、このスペースをより親しみやすい場所に育てるべく、2006年に横浜市港湾局が愛称を一般から公募した。その結果、桟橋全体を大きなクジラに見立てる形での「くじらのせなか」という物が選定され、同年12月4日、公式な愛称として同港湾局より発表された。
またその後、この愛称を派生させる形で、大桟橋の室内部分が「くじらのおなか」と呼ばれるケースも生じており、例えばミニコンサート等のイベントが行われる場合、「くじらのおなかコンサート」といった言葉の用いられ方が成されている。
交通
- なお、日本大通り駅の正式名称は「日本大通り(県庁・大さん橋)駅」という。
- JR根岸線・市営地下鉄ブルーライン関内駅から徒歩15分。
- 日本丸乗船所より京浜フェリーボートの水上バスで20分。
ギャラリー
周辺
関連項目
- メリケン波止場 - 一般的には神戸旧居留地のアメリカ領事館前に存在した波止場をいう。
- ウッチーズ - ここをテーマにした曲をゲーム『beatmaniaIIDX』で発表した。
- FOA - 設計を担当。
外部リンク
固有名詞の分類
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