塩谷教綱とは? わかりやすく解説

塩谷教綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 23:44 UTC 版)

塩谷 教綱(しおのや のりつな)は、下野国塩谷郡の武将。


  1. ^ 『川崎塩谷伯耆守実録』、塩谷氏の家臣である大沢氏の記録『大沢家記』等では、没日を5月13日と記す。
  2. ^ 喜連川塩谷系譜、塩谷朝秀の条。
  3. ^ 『大沢家記』
  4. ^ 秋田塩谷系譜に基づく。但し、系譜によっては隆綱の名が見えないものもある。
  5. ^ 『川崎塩谷伯耆守実録』や『大沢家記』などの記録によれば、文安3年(1443年)8月3日(『大沢家記』では8月13日)に持綱が塩谷領に攻めてきて敗れ、幸岡で自害したと記しているが、持綱の没年について、宇都宮氏の系図を始めとして応永30年としており、文安3年とする一級資料は見当たらない。
  6. ^ 益子氏の系図に、益子勝秀が『塩谷一族数年闘戦、永享十年塩谷敗而等綱十九歳之時令帰城干宇都宮(塩谷一族と数年戦い、永享10年(1438年)に塩谷一族が敗れて、等綱が宇都宮城に帰った。)』と記されている事から、それまでの宇都宮城が塩谷教綱の影響下に入っていたと考えられている。しかし、直接支配したのか、足利持氏が、宇都宮持綱の死後に宇都宮家の家督を継がせた宇都宮家綱(宇都宮伊予守)を城主として、その後見となっていたのかについては確証は無い。ただし、喜連川塩谷系譜には『宇都宮城ヲ綱家(教綱)令居住(宇都宮城を綱家が領し居住する)』と記されている事から、直接支配していた可能性の方が高いと考えられている。
  7. ^ 『川崎塩谷伯耆守実録』や『大沢家記』等では、宇都宮城ではなく、宇都宮城から帰る途中の5月13日に、氏家で襲われて殺害されたとする。ただし、塩谷氏の系図では『宇都宮城内客死』と記し、教綱の没日を5月8日としている。
  8. ^ 秋田塩谷系譜では、教綱の享年を52としているが、系図では、生年を応永13年(1406年)、没年を長禄2年(1458年)と記しており、数え年では53歳(当時は数え年が主流)であり、52とする享年は、計算違いか誤記であると考えられている。
  9. ^ ただし、系図によっては、光綱が存在していないものもある。但し、光綱の存在がない系図の場合、塩谷氏が途中で断絶してしまう事になるため、そうした史実はなく、これらの系図についての信憑性は低いと考えられている。


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