千蔵尚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/19 07:37 UTC 版)
千蔵 尚(ちくら たかし、1882年8月26日 - 1958年4月7日 )
- ^ 一学年下に北原白秋(本名:北原隆吉)がいた。実家も近く交流があったと推測される。白秋は後に山田耕作と組んで「岡崎市歌」を作ることになるが、これに千蔵尚が関わっていた可能性もある。ちなみに女学校の校歌は、伝習館の先輩藤村作に作詞を依頼したことが分かっている。
- ^ この頃、女学校新校舎の建設をめぐって、賛成派と反対派が対立、町議会が二分し、暴力事件までに発展するいわゆる「二校三校事件」が勃発。反対派の岡田撫琴らは事件の責任を問われ拘留、裁判は大審院まで及ぶ。
- ^ 八木開枝は大正7年4月に岡崎市史史料の蒐集・編纂を目的とする「汲古会」が図書館内に設置されると、汲古会幹事として会の事務を取り仕切り、編集主任の柴田顕正を助けた。千蔵が岡崎を去り、柴田が新館長になった以降も長く図書館に勤めた。そうした永年の功績が認められ、昭和3年11月10日社会教育功労者として、文部大臣勝田主計から表彰された。
[続きの解説]
- 千蔵尚のページへのリンク