分部光貞とは? わかりやすく解説

分部光貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/21 08:15 UTC 版)

分部 光貞(わけべ みつさだ)は、江戸時代後期の大名近江国大溝藩11代藩主。分部家12代。武家官位従五位上若狭守。維新後は知藩事


注釈

  1. ^ 晩年を大溝で過ごした近藤重蔵は、大坂弓奉行在任中に大塩と面識を持っている[3]。近藤重蔵は大塩の藤樹書院訪問以前、文政12年(1829年)に大溝で没している[3]
  2. ^ 一斎の娘婿。
  3. ^ 一斎の門弟筋にあたる。
  4. ^ 板倉家は備中松山藩が本家、安中藩が分家の関係にあたる。光貞の実父・勝尚は備中松山藩板倉家から安中藩板倉家に養子に入った。勝静は備中松山藩を婿養子として継いだ人物である。勝静の義父である板倉勝職と光貞が実の従兄弟という関係(ともに備中松山藩主板倉勝政の孫)にあたる。

出典

  1. ^ a b c d e f 分部光貞”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月7日閲覧。
  2. ^ a b c d 滋賀県立図書館 (回答) (2013年8月1日). “幕末・明治期の儒学者川田剛(甕江)が安政年間に近江の大溝藩に招聘されていた。川田剛招聘の経緯と同藩での活動を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2022年1月9日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 大塩ゆかりの地を訪ねて⑥「大塩平八郎門人と藤樹書院」”. 大塩事件研究会. 2022年1月9日閲覧。
  4. ^ 膽吹覚 2008, p. 51.
  5. ^ 膽吹覚 2008, pp. 51, 55.
  6. ^ a b 滋賀県立図書館 (回答) (2011年8月11日). “備中松山藩(板倉侯)の川田甕江の万延元年(1860)の日記を読んでいる中で、近江の大溝藩分部侯世子についての記述があります。……(後略)”. レファレンス協同データベース. 2022年1月7日閲覧。


「分部光貞」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「分部光貞」の関連用語

分部光貞のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



分部光貞のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの分部光貞 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS