ファンジとグレー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/07 21:40 UTC 版)
ファンジとグレーは、恩賜上野動物園で飼育されていたキリンのつがいである。1907年(明治40年)に生きたキリンとしては初めてドイツから日本に輸入されて、当時の人々に人気を博した[1][2][3][4]。ただし2頭とも短命で、1908年(明治41年)1月にメスのグレーが死に、次いで同年3月にはオスのファンジが死亡している[1][2][3][4]。
注釈
- ^ 彼らの遺した日記にはまだ「動物園」と云う言葉は使われず、「遊園」、「禽獣飼立場」、「禽獣園」、「鳥畜園」などとさまざまに呼んでいた。
- ^ 「ジラフがキリンと呼ばれた理由―中国の場合、日本の場合」の注釈では、「明治十年九月二十日から六十日間博物館で一般公開した」という記述が見られる。
- ^ 上野動物園で園の最高責任者として「園長」という職名が正式に使用されたのは、古賀忠道が最初である。それ以前の最高責任者だった石川千代松や黒川義太郎は「監督」、「主任技師」などと呼ばれていた。
- ^ このトラは、東京で巡業中だったイタリアの曲馬団で誕生した個体を譲り受けたものである。
- ^ 「ジラフがキリンと呼ばれた理由―中国の場合、日本の場合」では、石川千代松がキリンの名付け親という通説を否定している。石川は自著『通俗動物講話』(1936年)では「ジラフ」という名称を使用した。
- ^ 2015年(平成27年)時点での入園料は、一般600円、65歳以上300円、中学生200円となっている。
- ^ 高橋はストーブの種類をガスストーブと記述しているが、本項では『上野動物園百年史 本編』73頁の記述に拠った。
- ^ 高橋は自著『動物たちと五十年』で死亡日を「1月7日」と記述しているが、本項では『上野動物園百年史 資料編』290-292頁の記述に拠った。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 小森、28-32頁。
- ^ a b c d e f g h i j 小宮、69-74頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 高橋、34-43頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『上野動物園百年史 本編』、72-77頁。
- ^ a b c d 小宮、2-3頁。
- ^ a b c d e 湯城吉信. “ジラフがキリンと呼ばれた理由―中国の場合、日本の場合(麒麟を巡る名物学 その一 (PDF)”. 大阪府立大学工業高等専門学校. 2015年6月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 川田、316-319頁
- ^ 『上野動物園百年史 資料編』、574-578頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 小宮、69-77頁。
- ^ 『上野動物園百年史 資料編』、574頁。
- ^ 『上野動物園百年史 資料編』、578-580頁。
- ^ a b c d 『キリン解剖記』、pp.55-57.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 小宮、104-107頁。
- ^ a b c d e f 高橋、43-45頁。
- ^ 『上野動物園百年史 資料編』、290-292頁。
- ^ a b c d e f g h i 高橋、45-52頁。
- ^ a b c d e f 『上野動物園百年史 本編』、127-131頁。
- ^ “ADMTコレクション 博覧会ポスター (PDF)”. 公益財団法人吉田秀雄記念事業財団. 2015年7月4日閲覧。
- ^ “今日は何の日 3月22日”. WizBiz. 2015年7月4日閲覧。
- ^ a b c 小宮、124頁。
- ^ 『上野動物園百年史 資料編』、327-329頁。
- ^ a b 小宮、198-199頁。
- 1 ファンジとグレーとは
- 2 ファンジとグレーの概要
- 3 参考文献
- 4 外部リンク
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