ピノチェト軍政時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 06:52 UTC 版)
チリ共産党は、武力闘争路線を否定し、議会主義を取ったため、アジェンデ政権下では武装路線を辞さない左翼革命運動や社会党左派などの急進派と対立があったが、1973年のチリ・クーデターの後、ピノチェトの軍事独裁政権の下でチリ共産党は非合法化され、所属の国会議員や知事・市長、数多くの党員などが逮捕され、拷問、あるいは闇から闇に消し去られるなど、激しい弾圧を受けた(コンドル作戦)。その過程で、かつて対立した左翼革命運動と連携して武力闘争に路線変更し、党の指導の下で武力組織「マヌエル・ロドリゲス愛国戦線(スペイン語版)」(Frente Patriótico Manuel Rodríguez, FPMR)を創設し、1985年にピノチェトに対する襲撃を行ったが、失敗した。
※この「ピノチェト軍政時代」の解説は、「チリ共産党」の解説の一部です。
「ピノチェト軍政時代」を含む「チリ共産党」の記事については、「チリ共産党」の概要を参照ください。
- ピノチェト軍政時代のページへのリンク