ザイド・ブン・アリーとは? わかりやすく解説

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ザイド・ブン・アリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/04 18:24 UTC 版)

ザイド・ブン・アリー (アラビア語: زيد بن علي‎, ラテン文字転写: Zayd b. ʿAlī; 694-695年頃[1] - 740年) は、アリー・ザイヌルアービディーンの息子で(#生い立ち)、西暦740年クーファにおいてウマイヤ朝に対する蜂起・反乱を主導した8世紀の人物[1][2]。蜂起は失敗しザイドは処刑される(#ザイドの蜂起)。シーア派の中でザイドの蜂起に同調しなかった者たちが一説によると「ラーフィダアラビア語版」と呼ばれ、のちのイマーム派を形成することになる。他方で、ザイドを支持する者たちはザイド派を形成し、のちにイエメンやタバリスターンに新たな支持者を獲得していった(#ラーフィダとザイド派)。


  1. ^ タバリー、Suny press 2015、p.51 の脚注参照[3]Maqātel al-Ṭālebīyīn は当時流行した「マクタル書」の一書でシーア派イマームの小伝集。


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