クレオパトラ7世とマルクス・アントニウスの墓とは? わかりやすく解説

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クレオパトラ7世とマルクス・アントニウスの墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 13:25 UTC 版)

アントニーとクレオパトラの墓は、プトレマイオス朝エジプト最後のファラオクレオパトラ7世とその夫マルクス・アントニウスの墓である。墓の所在地は長らく不明だったが、エジプトアレクサンドリアの近郊にあるとされている。

概要

紀元前30年自殺英語版したと伝えられる2人の墓の所在は長年、不明であり、エジプトアレクサンドリアの近郊にあるとされている。歴史家スエトニウスプルタルコスによると、ローマの指導者オクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)プトレマイオス朝を滅ぼした後、クレオパトラとアントニウスの埋葬を許可した[1]。2人の間に出来た3人の子供たちは、ローマの市民として育てられるためにローマに連行された。

2008年2009年の報告書は、エジプト学者ザヒ・ハワス博士(考古最高評議会(SCA)長官)が、エジプトアレクサンドリア西方に位置するオシリスを祭る神殿であるタップ・オシリス・マグナ神殿跡でプトレマイオス朝時代の墓を発見した(と発表した)ことに焦点を当てている。ドミニカ共和国出身の刑事弁護士で考古学者のキャスリーン・マルティネス英語版博士の指揮の下で行われた発掘調査では27体のミイラや貴族の墓、クレオパトラの横顔が刻印されたコイン、そして、2人を抱きしめて描いた彫刻がある。

これまでのところ、墓の位置はまだ分からないが、2011年には地中貫入型レーダーを使って地下の追加の敷地が確認され、神殿の発掘調査が続いている[1][2][3]

外部リンク

  1. ^ a b Lucca Green. “The Tomb of Antony and Cleopatra?”. 2010年4月10日閲覧。
  2. ^ Ishaan Tharoor. “The Tomb of Antony and Cleopatra?”. Time Magazine. http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1893329,00.html 2009年4月23日閲覧。 
  3. ^ Search for the tomb of Antony and Cleopatra continues”. Archeology News Network. 2011年7月5日閲覧。



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