エンツォ・シーフォとは? わかりやすく解説

エンツォ・シーフォ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/13 01:01 UTC 版)

エンツォ・シーフォ
名前
本名 ヴィンチェンツォ・ダニエレ・シーフォ
Vincenzo Daniele Scifo
愛称 エンツォ
ベルギーの至宝
ラテン文字 Enzo SCIFO
基本情報
国籍 ベルギー
生年月日 (1966-02-19) 1966年2月19日(57歳)
出身地 ラ・ルヴィエール
身長 175cm
体重 70kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1973-1980 ラ・ヴィエロワーズ
1980-1983 アンデルレヒト
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1987 アンデルレヒト 119 (32)
1987-1988 インテル 28 (4)
1988-1989 ボルドー 30 (8)
1989-1991 オセール 67 (25)
1991-1993 トリノ 62 (16)
1993-1997 モナコ 91 (20)
1997-2000 アンデルレヒト 75 (14)
2000-2001 スポルティング・シャルルロワ 12 (3)
通算 478 (121)
代表歴
1984-1998 ベルギー 84 (18)
監督歴
2000-2002 スポルティング・シャルルロワ
2004-2006 テュビズ
2007-2009 エクセルシール・ムスクロン
2012-2013 モンス
2015-2016  ベルギー U-21
2021 ロイヤル・エクセル・ムスクロン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヴィンチェンツォ・ダニエレ "エンツォ"・シーフォVincenzo Daniele "Enzo" Scifo1966年2月19日 - )は、ベルギー王国エノー州ラ・ルヴィエール出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ベルギーの至宝と呼ばれ、1980年代から1990年代を代表する10番の一人である。[1]

クラブ経歴

シチリアからの移民であり、貧しいイタリア人家庭の子として生まれる。17歳の時にRSCアンデルレヒトのトップチームに加わると、すぐに頭角を現した[2]。イタリアのチームからのオファーを待っていたが、オファーが届かず、アンデルレヒトからは、ベルギー国籍を取得することを条件に5年契約を提示された[2]。1984年5月、アンデルレヒトと契約するため、イタリア代表入りの夢を諦め、ベルギー国籍を選択した[2]

また、ベルギー国籍を選択したことで兵役が義務付けられたが、「ベルギーの至宝」であることや、所属するアンデルレヒトでもレギュラーとして試合に出場していたこともあり、練習や試合に支障の無い形での兵役への参加が許可されたというエピソードもある[3]

1987年、ユヴェントスは、ミシェル・プラティニの後継者に据えるべく獲得に動くと、インテルは。ジョバンニ・トラパットーニの希望で獲得に動き、争奪戦を繰り広げた[2]。インテルがユヴェントスを上回るオファーを出し、インテルに移籍した[2]。大きな期待を集めての移籍だったが、大きなプレッシャーを受けるなど、活躍出来ずに終わった[2]。その後はフランスの、ボルドーオセールでプレーした。

1991-92シーズンにトリノに移籍、このシーズンリーグでは、第3位に入ると、UEFAカップでは、チームを決勝に導いた[1]、翌1992-93シーズンには、コッパ・イタリアの決勝でASローマを破り優勝を果たした[1]。トリノでは通算88試合20得点[4]ジャンニ・アニェッリがシーフォのファンであったことから、ユヴェントスからも興味を持たれていたが、1993-94シーズンには、アーセン・ヴェンゲル監督率いる、ASモナコに移籍[2]。モナコでは、4シーズンの間、チームの中心として好プレーを披露した[2]。このシーズンのチャンピオンズリーグでは準決勝まで進出したが、ACミランに敗れた[5]。1996-97シーズンには、ティエリ・アンリダヴィド・トレゼゲのツートップに度々好パスを供給するなど、リーグ優勝も果たし、UEFAカップでは、準決勝まで勝ち上がった[2]

引退後は指導者の道へ進み、2012年には、ジュピラーリーグに在籍するRAECモンスの監督を務めていた。

代表経歴

ベルギー代表として同年6月の欧州選手権に18歳で出場、次代のスター候補として脚光を浴びた[5]

4大会連続でFIFAワールドカップに出場(1986年1990年1994年1998年)し、1986年のメキシコ大会ではグループリーグのイラク戦で1得点、決勝トーナメント1回戦ソビエト連邦との対戦でも1得点を挙げ、準決勝に進出、ディエゴ・マラドーナを擁していたアルゼンチンに敗れたが、同国初となるワールドカップベスト4進出に貢献した[6]。この時対戦したマラドーナのプレーに深い印象を受けてという[1]。1990年大会では、グループリーグ初戦の韓国戦で1アシスト。第2戦のウルグアイ戦で35メートルのロングシュートで1得点を決め、ベスト16まで進んだ[2]。1994年大会は、ベスト16のドイツ戦で1アシストを決めたが、2-3で敗れた。1998年大会では、グループリーグのメキシコ戦でマルク・ヴィルモッツへのアシストを決めるも、3戦とも引き分けに終わり、決勝トーナメントに進めなかった。

注釈

  1. ^ a b c d REMEMBERING THE MISUNDERSTOOD GENIUS OF ENZO SCIFO”. フットボールタイムズ (2020年2月27日). 2022年2月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j Scifo campione incompiuto: il flop all'Inter, il riscatto con Torino e Monaco e i 4 Mondiali”. GOAL (2023年2月19日). 2023年8月13日閲覧。
  3. ^ サッカーダイジェスト1986年4月号-DIGEST INTERVIEW ROOM
  4. ^ Tanti auguri a...” (イタリア語). トリノFC (2021年2月19日). 2022年3月11日閲覧。
  5. ^ a b Scifo campione incompiuto: il flop all'Inter, il riscatto con Torino e Monaco e i 4 Mondiali” (イタリア語). ゴールコム (2021年6月23日). 2022年2月2日閲覧。
  6. ^ W杯に4度出場! “ベルギーの至宝”が魅せたワールドクラスのダイナミックなゴール”. フットボールチャンネル (2020年2月20日). 2022年2月2日閲覧。




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