ウリヤンハイ三衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 14:40 UTC 版)
ウリヤンハイ三衛とは、14世紀から16世紀にかけてヒンガン山脈周辺に居住した遊牧集団であり、朶顔衛(ウリヤンハイ)・泰寧衛(オンリュート)・福余衛(オジェート)の三衛によって構成された。モンゴル帝国-大元ウルス時代の東方三王家の後裔と見られ、洪武21年(1388年)明朝に降伏し羈縻衛所に編成されたことで成立した。後に南下して遼西方面に居住したが、チャハル部の東遷以後は他の部族に併合され、「三衛」は事実上解体された[1]。
- ^ a b c 岡田 2000,80頁
- ^ 『明史』「兀良哈伝」、『珠域周咨録』、『四夷館考』
- ^ 『四夷考』、『三衛志』
- ^ 青木 1973,92頁
- ^ 吉田1998,271-272頁
- ^ 和田 1959,107頁
- ^ 和田 1959,115-116頁
- ^ 『明史』「兀良哈伝」
- ^ 和田 1959,159頁
- ^ 青木1973,92-93頁
- ^ 新宮学「近世中国における首都北京の確立」『明清都市商業史の研究』汲古書院、2017年、P24-25.
- ^ 和田 1959,221頁
- ^ 和田 1959,222頁
- ^ 和田 1959,224頁
- ^ 和田 1959,225頁
- ^ 和田 1959,225-227頁
- ^ 和田 1959,230頁
- ^ 和田 1959,295頁
- ^ 和田 1959,346-348頁
- ^ 岡田 2000,393-395頁
- ^ 和田 1959,370-371頁
- ^ 漢文史料はモーリハイの死因について明記していないが、モンゴル年代記は「ホルチンのウネバラト王によって殺された」とする(岡田 2004,216-217頁)
- ^ 和田 1959,398頁
- ^ 和田 1959,399頁
- ^ 和田 1959,540-543頁
- ^ 和田 1959,605-612頁
- ^ 和田 1959,573-588頁
- 1 ウリヤンハイ三衛とは
- 2 ウリヤンハイ三衛の概要
- 3 歴史
- 4 関連項目
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