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インド・グリーク朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/23 07:55 UTC 版)
インド・グリーク朝(英語:Indo-Greek Kingdom)は、紀元前2世紀頃から西暦後1世紀頃までの間に主にインド亜大陸北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国の総称である。この地域におけるギリシア人はアレクサンドロス大王の時代より存在したが、有力勢力として台頭するのはグレコ・バクトリア王国の王デメトリオス1世によるインド侵入以降である。一般にこの時期以降のインドにおけるギリシア人王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。サカ人など他勢力の拡大につれてインド・ギリシア系の王国は姿を消したが、彼らの文化はインドに多くの影響を残した。
目次 |
記録
インド・ギリシア人に関する記録は少ない。メナンドロス1世(ミリンダ)など例外的に記録の多く残る王は存在するが、40人前後に上るインド・ギリシア人王の中で具体的な姿を読み取ることの出来る王は数名に過ぎない。
彼らについて知るために現在利用することが出来る記録は、各地で発行されたコイン(王名や称号などが記録されている)、僅かに残る碑文、ローマやギリシア人の学者達が残した書物や仏典などに残された記録などである。しかし質、量ともにインド・ギリシア人の歴史を明らかにするには極めて不十分である。
なお、インド・ギリシア人達はインドの記録ではヨーナ、又はヤヴァナと言う名で現れる。これはイオニアの転訛である。
コイン
インド・グリーク諸王国が発行したコインは後のインド社会に大きな影響を与えた。コインに王の横顔や神、称号を刻む習慣はインド・ギリシア人が権力の座を降りた跡も長期にわたってインドで存続した。
このコインは古代インド史を研究する上では欠かす事のできない資料であり広範囲で長期間流通した。インド・グリーク朝のコインの中には遠くイギリスで発見されたものもある。恐らく交易によって西方に齎されたコインを古代ローマ時代の収集家が保持していたものであると言われている[誰によって?]。
ギリシア人の移住
アレクサンドロス大王
ギリシア人がいつ頃インド亜大陸に居住を開始したのかは不明である。アケメネス朝が紀元前6世紀末頃から紀元前5世紀初頭にかけてインダス川流域まで到達して以降に、アケメネス朝の手によってギリシア人がこの地域に移住させられた可能性はある(少なくても中央アジア・バクトリア方面にはアケメネス朝時代に移住したギリシア人が存在したことが確認されている)が、記録が少なくはっきりとはしない)。インド亜大陸におけるギリシア人の活動を示す記録が増大するのはアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍がインダス川流域に侵入して以降のことである。
アレクサンドロス大王がペルシア遠征を行っていた頃、北西インドにおけるアケメネス朝の統制力は大幅に弱まっており無数の群小王国が成立していた。ギリシア人の記録によればその数は20を超えていた。これらの王国はポロスの王国とタクシラ(タクシャシラー)を除けば大国といえるような勢力は無く、相互に争っていた。アレクサンドロス大王の侵入に対してポロス王は抗戦の構えを見せたが、他の諸国の反応はまちまちであった。タクシラ王アーンビはポロスとの敵対関係のために、ただちにアレクサンドロスへの貢納を決めている。戦いの末ポロスはアレクサンドロスに敗れたが、その後も王の地位には留まり、アレクサンドロス大王の宗主権下において王国は存続した。また、いくつかの州ではギリシア人の総督が統治することとなった。
こうして支配者となったアレクサンドロス大王によってバクトリア(現在のアフガニスタン北部を中心とした地域)からインダス川流域にかけての地方にギリシア人都市が多数建設され、まとまった数のギリシア人が移住するに至った。紀元前4世紀末頃、これらの地域にセレウコス朝を開いたセレウコス1世がその支配権を獲得すべく遠征を行ったが、北西インド地方ではチャンドラグプタ王の建てたマウリヤ朝がセレウコス朝を圧倒し、その支配権を確保した。このため、北西インドに移住したギリシア人は、その後マウリヤ朝の支配下に入ることとなる。
マウリヤ朝治下のギリシア人
マウリヤ朝の勢力範囲内にギリシア人がいたことは、アショーカ王の残した詔勅碑文に辺境の住民としてカンボージャ人やガンダーラ人とともにギリシア人が言及されていることから確認できる。サウラシュートラ半島(カーティヤワール半島、現:インド領グジャラート州)では、マウリヤ朝の覇権の下でトゥーシャスパと呼ばれるギリシア人王が統治していた(トゥーシャスパという名はイラン風であるが、イラン名を持ったギリシア人であると考えられている)。彼はアショーカ王の命令によって水道を敷設したことが記録されている。
彼の他にもギリシア人による小王国が、インド北西部に散在していたことが知られている。これらの王国は土侯としての性格を持ったが、セレウコス朝など西方のヘレニズム王朝と異なり、マウリヤ朝の統制下にあって自立勢力とは言い難いものであった。
グレコ・バクトリア王国とインド・グリーク朝
グレコ・バクトリア王国の最初の侵入
バクトリアに移住したギリシア人達は紀元前250年頃にディオドトス1世の下で独立の王国を形成した。当初はマウリヤ朝が強勢であったことや、支配権回復を目指すセレウコス朝の攻撃とのためにグレコ・バクトリア王国がインドに影響を及ぼす事は少なかったが、紀元前200年に入るとインド方面への拡大を開始した。その端緒となったのはグレコ・バクトリア王国の4番目の王デメトリオス1世によるアラコシア征服である。彼はアラコシアにデメトリアードという名の都市を築くと、更にヒンドゥークシュ山脈を越えてパロパミソスを征服した。
デメトリオス1世に続いて、その弟アンティマコス1世(在位:紀元前190年 - 紀元前180年頃)の治世に入ると、インドにおけるマウリヤ朝の衰勢に乗じて更にインド方面へ勢力を拡大し、タクシラを占領してガンダーラ地方を征服した。
デメトリオス2世からインド・グリーク朝へ
アンティマコス1世の甥、パンタレオンやアガトクレスなどの内紛の後に(一説には内紛が続く中で)王となったデメトリオス2世の頃にはインドでは大きな政治的空白が生まれていた。紀元前180年頃にマウリヤ朝の将軍であったプシャヤミトラは、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタを殺害して新王朝シュンガ朝を建て、中央インドでは新たにヴィダルパ国が成立し、カリンガ国(チェーティ朝)などマウリヤ朝の下でマガダ国に征服された諸国も自立していた。
こういった状況のもとでデメトリオス2世はインドで大規模な征服活動を行ったと言われている[誰によって?]。デメトリオス2世が支配した領域は学者によって見解がことなり正確なことはわかっていない。この時代のインドの文献にはマトゥラーなどガンジス川中流域の都市がギリシア人に包囲されたと記録するものがある。シュンガ朝やチェーティ朝との間で戦闘が行われたと考えられるが詳細はよくわかっていない。
デメトリオス2世の行動に言及していると思われるインドの記録として、チェーティ朝の王カーラヴェーラの治世第8年の碑文がある。
- 「カーラヴェーラ王の治世第8年、彼は大軍を持ってゴラダギリを攻略しラージャグリハ(王舎城)に迫った。彼の勇敢な所業の報せを耳にしたヤヴァナ王ディミタは、自らの軍を危険から逃すべくマトゥラーに退いた。」
また、『ガールギー・サムヒター』と呼ばれる天文書の中にダルマミータ王がパータリプトラに進軍したとの記録があるが、このダルマミータはデメトリオス2世のことであるとする説がある。(ただし「ディミタ」や「ダルマミータ」が本当に「デメトリオス2世」のことであるかどうか、断言はできない。)
ともかくも、デメトリオス2世が熱心な征服活動をインド北西部からガンジス川流域にかけての地域で行っていたのは確実である。しかし、こうした中でグレコ・バクトリア本国では紀元前175年頃(年代には異説が多い)、エウクラティデス1世が反乱を起こし、支配権を握るという事件が発生した。このためデメトリオス2世は6万の兵を持ってエウクラティデス1世を討伐に向かった。エウクラティデス1世は僅か300人の手勢しか持っていなかったが、パルティアに領土の一部を割譲することで全面的な支援を獲得し、デメトリオス2世を撃退して紀元前171年頃に自ら王位についた(エウクラティデス朝)。そしてデメトリオス2世が征服したインド側領土の大部分を含む地方の支配権を得たが、バクトリア本国への帰還途中に息子に暗殺されたためにインド地方の支配権は大部分が失われた。
この結果インド亜大陸及びその周辺におけるギリシア人の勢力はエウクラティデス1世の後継者によるバクトリア部分と、デメトリオス2世が征服した領域を基盤とするインド部分とに大きく分かれた。一般にこの分裂したギリシア人勢力のうちインド部分に支配権を持った諸王国がインド・グリーク朝と呼ばれる。
デメトリオス2世のインドにおける勢力基盤を継承したのは恐らくアポロドトス1世であった。この根拠となるのがデメトリオス2世の発行したコインとアポロドトス1世の発行したコインが同種の物であり、ほぼ同じ年代に属すると考えられることである(ただしアポロドトス1世がデメトリオス2世の父であるとする説もある。その他の説も多く正確にはわかっていない。)。アポロドトス1世はコインの分布からインダス川両岸地方からアラコシア(現:アフガニスタン南部)に至る地域に勢力を持っていたと推定されている。
メナンドロス1世
インド・グリーク朝の王の中で最大の勢力を築き、また最も多くの記録を残しているのはメナンドロス1世(ミリンダ 在位:紀元前150年頃 - 紀元前130年頃?)である。メナンドロス1世はインドにおいてエウティデムス朝系の権力に対する反対者として台頭したという説が近年では有力であるが、彼が権力を得た具体的な経過はわかっていない。
メナンドロス1世は北西インドの都市シャーカラ(現:シアールコット)を都とした。古代の地理学者プトレマイオスによれば、当時この町はエウテュメディアと呼ばれたという。メナンドロス1世の発行したコインは他のインド・グリーク王の誰よりも広い範囲から出土している。その範囲は現在のカブールからバルチ、カシミール、マトゥラーに至る。
同じく地理学者プトレマイオスによって造られた世界地図によればインド亜大陸にはメナンドロス山などと名づけられた山が存在していたらしい。こうしてインド亜大陸に勢力を拡張した王達、アポロドトス1世やメナンドロス1世はギリシア・ローマの歴史家達にはインド王として言及されている。
メナンドロス1世の名を今日に伝えている最も重要な記録は仏典の1つ『ミリンダ王の問い』である。メナンドロス1世は仏教に帰依したことが知られており、当時のインドでは単に武勇に優れた征服王というだけではなく偉大な哲人王として記憶された。ミリンダとはメナンドロスの名がインド風に訛って伝わった名である。
- 「彼は論客として近づき難く、打ち勝ち難く、数々の祖師(ティッタカラ)のうちで最上の者であったと言われる。全インド(ジャンブディーパ)のうちに肉体、敏捷、武勇、智慧に関して、ミリンダ王に等しい如何なる人も存在しなかった。彼は富裕であって大いに富み、大いに栄え、無数の兵士と戦車とを持った」
この書はメナンドロス1世と仏僧ナーガセーナとの対談と、王の改宗の顛末などを中心に記録されたものであるが、メナンドロス1世が仏教に帰依したという点には疑問を呈する学者もいる。だが大勢ではやはり仏教を重視したのだろうとする説が有力である。メナンドロス1世はインド・ギリシア人最大の王であり、彼が発行したコインはその後200年以上にわたって北西インドで流通した。これはメナンドロス1世以降暫くの間、彼ほど巨大な経済力を持った王が存在しなかったことを示すともいわれる。
グレコ・バクトリアの終焉とインド・グリークの諸王
メナンドロス1世が死んだ後、王妃アガトクレイアが権力を握ったが、それと同じ時期の紀元前130年頃には大月氏によってか、或いは大月氏の圧力によって移動したトハラ人、サカ人によってか、正確なことはわかっていないが、バクトリアのギリシア人王国はこういった遊牧民の侵入によって崩壊した。(大月氏とは紀元前2世紀に匈奴の膨張に押されてタリム盆地から移動を開始し、紀元前2世紀半ば頃にバクトリアを征服した月氏族の勢力を指す。詳細は月氏の項目を参照。)
紀元前125年頃にグレコ・バクトリア最後の王ヘリオクレスは殺害されたか、もしくは亡命を余儀なくされた。そして残されたバクトリア・ギリシア人達のいくらかはインド・ギリシア人達の勢力範囲に流入した。リュシアス、ゾイロス1世、アンティアルキダスなどのギリシア人王が各地で勢力を持ったが、彼らの多くはこの時期に新たにインドに移動したグレコ・バクトリア系の王であると言われている[誰によって?]。彼らは基本的にはエウティデムス朝かエウクラティデス朝に属する王達であったと考えられている。また、メナンドロス1世とアガトクレイアの息子、ストラトン1世も、やや遅れてではあるがインド・ギリシア人の代表的な王として活動したと見られる。
こういった経緯によって。インドにおけるギリシア人の勢力は新たにバクトリアから流入した人々によって形成された西方のアラコシアやパロパミソスを支配する勢力と、恐らくメナンドロス1世の後継者達によると考えられる東方の西パンジャーブ地方などを支配する勢力に大きくわかれた。また更に多くの群小王国が存在したと考えられる。
だが、この時期のインド・グリーク諸王の勢力範囲は年代決定は諸説紛糾しているのが現状であり、極めて僅かな史料を下にその活動が想像されているに過ぎない。それでも上記の王達の場合はまだ記録に恵まれている方である。ニキアス、ポリクセノス、テオフィロスなどのように、発掘されたコインからただ名前のみが知られているインド・グリーク王は約40人にも上るが、彼らについては極めて大雑把な概要さえ知る事ができない。
彼らは相互に覇権を争ったが、紀元前90年以降その勢力は減衰を続けた。西暦1世紀初頭までには支配者としてのギリシア人の地位は完全に失われた。
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- 1 インド・グリーク朝の概要
- 2 インド・グリーク諸王国の社会・国制
- 3 宗教
- 4 黒いギリシア人
- 5 参考文献
固有名詞の分類