アイルランド共和国議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:53 UTC 版)
「マイケル・コリンズ (政治家)」の記事における「アイルランド共和国議会」の解説
他のシン・フェイン党の古参幹部と同じように、マイケル・コリンズは1918年に行われた大英帝国議会庶民院におけるアイルランド代表議員の選挙に南コーク県の代表として立候補し、圧倒的な支持を受けて当選した。しかしシン・フェイン党出身の議員たちがライバルであったアイルランド議員党の議員たちと異なっていたのはロンドンの議会に出席することを拒否し、ダブリンに「ドイル・エアラン」(アイルランド共和国議会)なる新議会の創設を宣言したことであった。 ドイル・エアランは1919年1月に初会合を開いたが、このような動きを見たイギリス政府は、デ・ヴァレラをはじめとするシン・フェイン党の指導者たちの一斉検挙に踏み切った。コリンズはいつものように自前の情報網を駆使してこの動きを事前に察知しており、他の指導者たちに再三警告していた。デ・ヴァレラもまたいつものようにコリンズの情報を信じず、もしイギリス政府がそのようなことをしたら、かえってシン・フェイン党の名前をとどろかせ、アイルランド人の士気を高めることになると考えた。しかし、指導陣が根こそぎ逮捕されてしまったことで、シン・フェイン党の名前をとどろかす動きなどできない状況であった。 デ・ヴァレラが収監されている間、カハル・ブルハが代わりに議長 (Príomh Aire) をつとめた。デ・ヴァレラは1919年4月、コリンズの手引きによってリンカーン刑務所(英語版)を脱獄することに成功した。 1919年はコリンズが大車輪の活躍をした年であった。夏にはアイルランド共和同盟の団長に選ばれ、9月にはアイルランド共和国軍(IRA、アイルランド義勇軍(英語版)から改名)情報部の部長と次々要職についた。1919年1月21日、アイルランド共和国議会の最初の会合の日が、アイルランド独立戦争の始まった日とされている。この日 IRA の義勇兵がティペラリー県のソロヘドベグでダイナマイトを強奪しようと2名の警備兵を射殺している。
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