セバスチャン・ブルドンとは? わかりやすく解説

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セバスチャン・ブルドン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/24 15:09 UTC 版)

セバスチャン・ブルドン
Sébastien Bourdon
イアサント・リゴーによる肖像画
生誕 1616年2月2日
フランス,モンペリエ
死没 1671年5月8日
フランス,パリ
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セバスチャン・ブルドン(Sébastien Bourdon、1616年2月2日1671年5月8日)はフランスの画家である。フランスの王立絵画彫刻アカデミーの創立時の幹部会員の一人である。スウェーデン女王クリスティーナの宮廷画家を務めた。

略歴

モンペリエで生まれた。父親はガラス工芸家であった。7歳の時、叔父に連れられてパリにでて、画家の見習いになった。14歳の時にボルドー近くの宮殿の天井画の仕事をしたが、その後移ったトゥールーズでは仕事を得ることができなかった。収入を得るために、兵士になり、上官の理解を得て、絵を描く時間をしばしば与えられ、支援するパトロンが表れて軍隊を除隊した。1634年にローマに移り、当時ローマで活躍していた画家たち、クロード・ロランアンドレア・サッキピーテル・ファン・ラールら、バンボッチャンティ(Bamboccianti)と呼ばれる画家たちの絵のスタイルを学んだ。ローマで画家としてある程度成功したが、カルヴァン主義者であったので、1637年に、仲たがいしたフランスの画家に告発、訴追されそうになって、ローマから離れた。

パリに移り、イタリア風のスタイルの風景画などで人気となり、ノートルダム聖堂の天井画も描いた。1648年に王立絵画彫刻アカデミーの創立会員となり、教授の一人となった。画家グルニエ(Louis du Guernier)の娘と結婚した。

1652年にスウェーデンに渡りスウェーデン女王クリスティーナの宮廷画家となった。ブルドンの代表作には女王クリスティーナの騎乗する肖像画がある。1654年に女王が退位した後、パリに戻り、アカデミーの教授に戻り、1655年からは校長を務めた。1657年から、モンペリエに移ったが、別の画家と喧嘩をしてパリに戻った。1671年にパリで死去した。

作品

参考文献

  • R. Guilly: Kindlers Malereilexikon, dtv 1982
  • Ch. Ponson-Hailhe: Sébastien Bourdon, sa vie et son oeuvre, Paris 1883



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