テオドア・ホルムスキヨルとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > テオドア・ホルムスキヨルの意味・解説 

テオドア・ホルムスキヨル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/20 07:05 UTC 版)

ホルムスキヨルと家族の肖像画
(画)イエンス・ユール

テオドア・ホルムスキヨル(Johan Theodor Holmskiold 、1731年6月14日1793年9月15日)はデンマークの植物学者、役人である。

略歴

フュン島のニュボー(Nyborg)に外科医師の息子に生まれた。父親とコペンハーゲン大学で医学を学んで、1760年に卒業した。在学中に3年間に渡って、教授のロットボル(Christian Friis Rottbøll)とともに師の費用でヨーロッパを旅した。ドイツやオランダ、フランスの大学を訪れ、多くの同時代の学者と交流し、ライデン大学パリ大学では後に標本館をつくるもとになった標本を入手した。

1762年にソレ・アカデミーの医学と自然史の教授となり、1765年まで務めた。ソレ・アカデミーに植物園をつくり、役人として働くことになったためと、植物学の興味から、医者として働くことはやめた。

1767年にコペンハーゲンで郵便事業の管理者に任じられ、その仕事は没するまで続けた。1772年から王太后ユリアーネ・マリーの秘書官を務めた。王太后から信頼を受けたホルムスキヨルは、 化学者、鉱物学者のフランツ・ヘンリック・ミュラーを招き、デンマークで初の硬質磁器を完成させて、王室御用達窯、「ロイヤルコペンハーゲン」の運営の責任者も務めた[1]

1778年に、シャーロッテンボー宮殿に統合拡充された、コペンハーゲン大学植物園の園長の一人になった。(王室と大学がそれぞれ園長を指名するシステムがとられた。)大学の指名した園長は旧師のロットボルであった。王室の評価は高まり、1781年にナイト、1884年にGehejmerådの爵位を受けた。

植物学者としては菌類に関する著作、"Beata ruris otia fungis Danicis Impensa" の著者として知られ、2巻の著者は1790年と1796年に出版されたが、研究は郵便事業の仕事に就く前に行われたものであった。ホルムスキヨルが解説を書き、画家のJohan Neandeが図版を描いた。74の種が記載され、そのうちの50あまりの種は新種であった。この著作をスウェーデンの博物学者、アンデシュ・ヤハン・レチウスは絶賛し、レチウスはシソ科の植物の属名、Holmskioldia、にホルムスキヨルの名前を命名した[2]

著書の図版

参考文献

  1. ^ Theodor Holmskjolds liv og botaniske arbejde med svampe”. Denmarks Naturfredningsforening. 2010年9月22日閲覧。
  2. ^ Fungis Danicis”. anothermag. 2010年9月21日閲覧。
  3. ^ Ramaria farinosa Holmsk. 1781”. Mycobank. 2010年9月23日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「テオドア・ホルムスキヨル」の関連用語

テオドア・ホルムスキヨルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テオドア・ホルムスキヨルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのテオドア・ホルムスキヨル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS