森外三郎
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森 外三郎(もり そとさぶろう、慶応元年(1865年)8月 - 1936年(昭和11年)3月6日[1])は、日本の数学者・教育者。
注釈
- ^ 桑原武夫『人間素描』では30人あまりの人々を描写しており、京都一中・三高の名物校長森外三郎も登場する。
- ^ 第三高等学校校長時代の学生に湯川秀樹がおり、湯川の父の小川琢治は数学に熱中する湯川を専門学校へ進学させた方が良いと考えていたものの、「秀樹君ほどの才能というものは、めったにない。秀樹君の頭脳というものは、大変飛躍的に働く。着想がするどい。それがクラスのなかで飛びはなれている。天才的なところがある。それは私が保証する。」と数学者の立場から進言している。
- ^ 校長として断固とした処分を行う一方で、放校者を対象とした高校の卒業検定試験を実施し、彼らを実質卒業させ、将来の道を閉ざさないようにしていた。
出典
- ^ 『昭和12年 国民年鑑』国民新聞社、1936年。
- ^ 學士會と帝國大會との關係を論し併せて學士會の任務に及ぶ(森外三郎)
- ^ 読売新聞1910年12月4日別刷1ページ 中島半次郎の伯林通信「十月3日の夜,伯林文教会が来遊中の谷本博士の歓迎を含めFriedrichstrasse Keiserkellerで開き申候.出席者は武内大造,辻高衡,中島半次郎,山岸光宜,阿部秀助,坂口昇,斎藤斐章,廣政幸助,森外三郎等の九君に,賓客を併せて十人,旅行談やら,故国の文学教育に関する話やらにて,十二時近くまで賑ひ申候」
- ^ 桑原哲夫氏の『森外三郎先生のこと』
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