東映フライヤーズの歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/03 07:40 UTC 版)
「東映フライヤーズの歌」(とうえいフライヤーズのうた)は、かつてプロ野球のパシフィック・リーグに属していた東映フライヤーズの球団歌。作詞・藤浦洸、作曲・古関裕而[1]。
注釈
- ^ 関連として、古関は戦時中に「東京急行電鉄株式会社社歌」(作詞:西條八十)を作曲している。
- ^ 東映はその後1964年(昭和39年)に東急グループから離脱したが、球団(株式会社東急ベースボール倶楽部)を東急が保有し東映興業が委託を受けて運営する体制は1972年(昭和47年)末に日拓ホームが球団を買収するまで続けられた。
- ^ a b 2020年(令和2年)に発見された楽譜には「42・7・9改訂」と記載されていることから、改訂日は1967年(昭和42年)7月9日と考えられる。また、歌詞も「東急」と比較すると2番の「力を業(わざ)を→力と業と」や3番の「かの青空→彼(か)の大空」など細部の改訂が行われた形跡が見られる。
- ^ 通称「六甲おろし」。1936年(昭和11年)に大阪タイガースの球団歌「大阪タイガースの歌」として制定。1961年(昭和36年)に球団名が阪神タイガースに変更されたのに伴い、現行の「阪神タイガースの歌」に改題。
- ^ 1950年(昭和25年)から1977年(昭和52年)まで使用、通称「青雲たかく」。
- ^ 曲名は『鐘よ鳴り響け』では「東映フライヤーズの歌」、『作曲家研究名作選 古関裕而』では「フライヤーズの歌」と表記。
- ^ 北海道日本ハムファイターズは2017年(平成29年)に「レジェンドシリーズ」として東映時代のユニフォームを復刻したが、この時もフライヤーズの球団歌は演奏されていない。
- ^ 藤浦は1961年(昭和36年)から7シーズンにわたり東映の監督を務めた水原茂と慶應義塾大学OB同士で親交があったが「東急フライヤーズの唄」を作詞したのは1950年(昭和25年)のため、その縁での起用ではなかったと見られる。
出典
- ^ a b c d e 伊藤駿 (2021年1月17日). “<みなぶん>古関裕而作曲、幻の球団歌「東映フライヤーズの歌」 楽譜と歌詞、故郷の福島に”. どうしん電子版 (北海道新聞社) 2021年1月17日閲覧。
- ^ a b 伊藤駿 (2021年1月17日). “<みなぶん>「東映フライヤーズの歌」実際に歌ってもらったら-”. 北海道新聞社 2021年1月17日閲覧。
- ^ 尾崎(2021), p225
- ^ 伊藤駿 (2021年1月18日). “<みなぶん>古関裕而作曲、幻の球団歌「東映フライヤーズの歌」の謎 (上)”. どうしん電子版 (北海道新聞社) 2021年1月18日閲覧。
- ^ 伊藤駿 (2021年1月25日). “<みなぶん>古関裕而作曲、幻の球団歌「東映フライヤーズの歌」の謎 (下)”. どうしん電子版 (北海道新聞社) 2021年1月25日閲覧。
- 1 東映フライヤーズの歌とは
- 2 東映フライヤーズの歌の概要
- 3 解説
- 4 参考文献
- 5 脚注
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