木下東作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 20:41 UTC 版)
木下 東作(きのした とうさく[1]、1878年(明治11年)6月[1][注釈 1] - 1952年(昭和27年)6月19日[1])は、日本の運動生理学者[1]、スポーツ評論家[1][4]。医学博士[4]。大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる[1][4][5]。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。
注釈
- ^ 『人事興信録』第4版(1915年)では「6月27日」と誕生日が記されているが[2]、より新しい第8版(1928年)では単に「6月」と改められている[3]。
- ^ 13マイルは約21km。
- ^ 同年2月11日(紀元節)に官立山口高等学校(山口大学の前身)が開催し、各種メディアで報じられた「運動部陸上遠足会」(山口から防府までの11マイルを走った)[11]に触発されたもの[12]。山口高校の運動部陸上遠足会は、日本で初めてメディアが伝えたロードレースとされる[13]。
- ^ この時期、この学校の組織と名称は変遷を繰り返しており、1915年に大阪府立大阪医科大学、1919年に大阪医科大学となる。同時代の『人事興信録』では、大阪高等医学校での職位が「教諭」[2][3]、大阪医学専門学校・大阪医科大学での職位が「教授」。
- ^ 「国際女子スポーツ連盟」の項目に言及がある。
- ^ 探偵小説家としても活動、春日野緑のペンネームでも知られる。
- ^ 国際女子競技大会(Women's World Games)について、日本語文献では「女子オリンピック」「万国女子オリンピック」などの訳語があてられることがある。
出典
- ^ a b c d e f g h i “木下東作”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年3月29日閲覧。
- ^ a b c “木下東作 (第4版[大正4(1915)年1月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年4月5日閲覧。
- ^ a b c “木下東作 (第8版[昭和3(1928)年7月]の情報)”. 『人事興信録』データベース. 2023年4月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “木下 東作”. 20世紀日本人名事典. 2023年3月29日閲覧。
- ^ 黒田勇 2020a, p. 161-162.
- ^ 堀江幸司 (2018年6月17日). “49. 木下正中一家の家族写真:父・凞,母・準子を囲んで”. 改訂版・江戸東京医史学散歩. 2023年3月29日閲覧。
- ^ 石川源「小浜藩藩医木下宗白の系譜と明治期以降の我が国産婦人科医学へのかかわり」『第121回日本医史学会総会一般演題』、183頁。
- ^ “木下正中”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年3月29日閲覧。
- ^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校、1929年)参照
- ^ a b c 渡辺勇一 2017, p. 57.
- ^ 渡辺勇一 2017, pp. 39–40.
- ^ 渡辺勇一 2017, pp. 56–57.
- ^ 渡辺勇一 2017, pp. 37–38.
- ^ “JFA初代会長、今村次吉は不忍池周回競争の裸足のランナー”. 賀川サッカーライブラリー. 2023年3月29日閲覧。
- ^ 黒田勇 2020, p. 5.
- ^ a b 黒田勇 2020, p. 6.
- ^ 黒田勇 2020, p. 19.
- ^ a b c d e f g h i j 油野利博 1974, p. 189.
- ^ a b 油野利博 1974, p. 188.
- ^ 本間周子 1989, p. 7.
- 木下東作のページへのリンク