千坂高雅
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千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は、日本の官僚[1]・政治家・実業家。陸軍中佐、錦鶏間祗候。 幼名は與市、戊辰戦争中は太郎左衛門、喜遯斉。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「千坂高雅」
- ^ a b 松田敬之 2015, p. 457.
- ^ [1]米沢市HP広報よねざわ「米沢偉人伝」
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P588
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P589-591
- ^ 「史談会速記録 合本19 千坂高雅P47」
- ^ 「上杉御年譜17」P641
- ^ 「歴史評論631号」奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩P21 上松俊弘 歴史科学協議会 2002.11
- ^ 「歴史評論631号」奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩P26(注35) 「総督・千坂高雅、参謀・甘糟継成、軍艦・倉崎清典、長秀方、原正祐、高山政康、森長義、松本高明」 上松俊弘 歴史科学協議会 2002.11
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P584
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P612
- ^ 甘糟備後継成遺文『北越日記』慶応4年5月朔日付記載P179-180「西軍追々越後へ繰込み已に高田に充満し、会兵(会津藩兵)之を拒かんとして、数千の兵を処々に押出し、是が為に七郡の民心甚動揺、多くは会藩(会津藩兵)の雇ふ処の幕府兵隊水戸脱藩兵等乱暴を恣にして、人民を侵掠するが、為に率ね会(会津)を悪んで窃に官軍へ内通する者多く、或は米沢の旧恩を慕て来て御救助を願う者少なからず、於是軍政府にては会兵(会津藩兵)もし敗るるときは官軍長駆して直ちに越全国を蹂躙し直ちに我小国境に迎るへし・・・官軍に説いて戦争を止めしむるこそ急務なれと議論し、先日よりしきりに政府詰之間に出て論議を尽くすと雖も、中老若林秀秋固く拒て不従、又千坂総督も昨日已に最上に出張、竹股大夫も又同断なれは、主として決断する人無之、・・・依之即夜急に於政府大会議有之、余例の通明日にも越地へ兵を出して民望をつなぐへき云々、極論鶏明に至てようやく、中条隊一手を玉川御境まで繰り出して越地の民心を安んじ・・」
- ^ 「史談会速記録 合本19 千坂高雅P174」「亡びんより推し出して是非に一方を切り抜けて、此趣を闕下に主人同道して上奏に及び、そうして何分の御沙汰を待たねばならぬと、そうなれば薩長も必ず多少考える所があろう」
- ^ 「歴史評論631号」奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩P22「千坂の言によれば、太政官への建白書を藩主同道により上奏するのが目的であり・・北陸道を経由しての上洛を考えていたと思われる」上松俊弘 歴史科学協議会 2002.11
- ^ 甘糟備後継成遺文『北越日記』慶応4年5月13日付記載P191-193
- ^ 「史談会速記録 合本19 千坂高雅P178」「国元の主人より側用人の林部大八と云う者を以て直書を以て、私と色部と交換、色部は新発田の処分と軍器弾薬買い上げを心配せよという御達しを賜りました。」
- ^ 甘糟備後継成遺文『北越日記』慶応4年6月13日付記載P282「此に至りて佐川・河井評議の上深く千坂総督を推して諸軍の総将とし、大小となく号令を下さんことを乞う。 然らざれば諸藩の兵隊烏合にして統一せず、規律節制又立つ処なくて敗軍の基なりと伝。・・・爾後諸藩共に千坂大夫を単に総督と称し、余を参謀と単称して名いはず。」
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P623
- ^ 「史談会速記録 合本19 千坂高雅P250」「拙者(千坂高雅)は小藩であるのみならず年少の千坂なので、どうか大藩の会津家老の一瀬要あるいは随分知力もあって官軍にも両度ながら自ら踏み込んだくらいの男である長岡の河井継之助という人にどうか総裁になってもらいたいと言ったが、軍律は米沢に従うというので、心は不服であったが、皆が揃ってこの千坂太郎左衛門の命令に従う、どうぞ総督の名を以て命令してくれと満場一致の推薦だったので、やむを得ずその意に従い、越後に居た各藩の兵隊を自分の一手で統(す)べるということになりました。」
- ^ 「史談会速記録 合本19 千坂高雅P272-273」「それから、その足で長岡(城)に這入って見た所が、河井継之助の右の足に大砲の弾丸が中つて膝の下は筋を残した許りで皆持って行かれた。 '然るに、非常な元気な男であるから、串戯に、今休んで居るというて居る。 お前はあやまち手負いしたのではないかと言ったら、私は実に愉快でございます。 イヤ、愉快でも宜しいが、余程の傷ではないか、そんなことを言いました。 その頃は医術が開けなかったから仕方がないが、その時切断でもしたら、あるいは助かったのであろうが、実に膝から下は筋を残して、骨でも何でも無茶に持って行かれて仕舞って、二目と当てられたものではない。 思はず涙が溢れたけれども、弱きを見せては可けませぬから声を励まして慰めてやりました。」
- ^ 「史談会速記録 合本19 千坂高雅P273-274」「吉井幸助殿 西郷信吾殿 度々の手紙拝見致候御地方遂に米沢大兵を出だし、度々の苦戦の趣、御苦労に奉存候。依ては今般、薩州一大隊の兵と共に私(西郷隆盛)ならびに黒田、出張。蒸気も都合五艘数千の兵を乗せ差廻はされ候間、御尽力被成度候。且つ疾くに京都へも使者差立てられ 天皇にもいよいよ御親征一先づ駿府へ御駐輦被遊候様決定致候間此旨御報知仕候。 以上 西郷吉之助」
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P642-646
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P643
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P650-656
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P650
- ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」P663
- ^ 「上杉家御年譜19」P465-456 明治元.12.22付
- ^ a b c 「米沢市史第3巻(近世編2)」P669
- ^ 「戊辰雪冤」米沢藩士・宮島誠一郎の明治P154-158 友田昌宏 講談社新書2009.8.20
- ^ 「戊辰雪冤」米沢藩士・宮島誠一郎の明治P159 友田昌宏 講談社新書2009.8.20
- ^ 「戊辰の役と米沢」戊辰の役戦跡訪問報告P105 下平才次 置賜史談会 昭和43.12.1
- ^ [2] 新潟百景「戊辰公園の色部長門君追念塔」
- ^ 「興譲館人国記」松野良寅 P402米沢興譲館藩学創設三百年記念事業実行員会 H10.9.19
- ^ 「史談会速記録 合本19 千坂高雅P193」
- ^ 「上杉御年譜20」明治2年12月晦日P119-120
- ^ 上杉博物館特別展「戊辰戦争と米沢」2018.9.5 P104-105『上杉斉憲宛三条実美書状(写真と解説)』
- ^ 「戊辰雪冤」米沢藩士・宮島誠一郎の明治P183-188 友田昌宏 講談社新書2009.8.20
- ^ a b 「米沢市史第3巻(近世編2)」P670
- ^ 「上杉家御年譜20」P191-192
- ^ 「興譲館人国記」松野良寅P330
- ^ 「上杉家御年譜20」P334
- ^ 「上杉家御年譜20」P342
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- ^ a b c 「興譲館人国記」松野良寅 P331 米沢興譲館藩学創設三百年記念事業実行員会 H10.9.19
- ^ 「上杉家御年譜20」P389
- ^ 「大久保利通関係文書(所蔵)」〔管見〕千坂高雅
- ^ 「海軍王国の誕生」P71松野良寅 吾妻記念館 H9.4.28
- ^ 「海軍王国の誕生」P71-72松野良寅 吾妻記念館 H9.4.28
- ^ 「前島密にあてた大久保利書簡集」P28,35,36,41,59,60,61,66,77 郵政省逓信博物館
- ^ 「徴兵令制定史」P424-425,P442-460松下芳男 内外書房 昭和18
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- ^ a b c 「海軍王国の誕生」P73松野良寅 吾妻記念館 H9.4.28
- ^ 「興譲館人国記」松野良寅 P333 米沢興譲館藩学創設三百年記念事業実行員会 H10.9.19
- ^ 複合的造型としての銅像北澤憲昭、ゆまに書房
- ^ 九谷焼とは九谷焼美術館 解説ボランティア
- ^ 『瀬戸内の経済人』赤井克己、吉備人出版, 2007
- ^ 歴史ノートルダム清心女子大学
- ^ 『婦人運動』西川光次郎、内外出版協會, 1913
- ^ 官報 明治27(1894).9.22」
- ^ 官報明治27(1894).9.22」
- ^ 会社沿革横浜倉庫
- ^ 『官報』第4431号、明治31年4月12日。
- ^ 米沢有為会HP 歴代会長
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
- ^ 『官報』第3388号「叙任及辞令」1894年10月11日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
- ^ 三田村鳶魚が高雅からこの話を聞かされ、「千坂家に伝わる嘘話」と書いている。(『大衆文芸評判記』中公文庫、1978年、41頁。)ただし鳶魚は当時兵部が国許にいたものとしている。
- ^ 佐々木克, ed (2004-11-10). 大久保利通. 講談社. pp. 65-69
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